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司修「さようなら大江健三郎こんにちは」(鳥影社) 2023年の3月3日に、作家の大江健三郎が亡くなって、ほぼ、1年がかりで彼の、まあ、それぞれの時期の代表作を読み直したりしました。
「死者の奢り・飼育」(新潮文庫)から、「芽むしり仔撃ち」(新潮文庫)、「万延元年のフットボール」(講談社文芸文庫)、「同時代ゲーム」(新潮文庫)、「懐かしい年への手紙」(講談社文芸文庫)、「燃え上がる緑の木」(新潮文庫・全3巻)、「雨の木を聴く女たち」(新潮文庫)、そして、「晩年様式集」(講談社)ですね。 読みながら 「どなたか、大江健三郎について、2023年の視点に立って論じる人はいないのかな?」 まあ、そういう気分でした。 今から50年ほど前、1970年ころ大江の作品に出逢ったボクにとって、松原新一さんの「大江健三郎の世界」(講談社)と野口武彦さんの「吠え声・叫び声・沈黙 」(新潮社)が、まあ、お二人とも通っていた学校の先生ということもあって、最初の入門書でした。 松原新一さんは、開講中の講義を放り出して、ご出奔という快挙・怪挙(?)で学校から消えてしまわれたことが、いまだに、その授業を受講していた同級生の間では話題になりますが、2013年に亡くったそうです。 野口武彦さんは、さん付けで呼ぶのも、烏滸がましいというか、申し訳ない気分ですが、所謂、ゼミでの担当教授としてお出会いして以来50年、「先生」として私淑させていただいた方でしたが、2024年の6月、お亡くなりになりました。 お二人は、大江健三郎よりも少しお若のですが、1960年代の「大江」について、同時代の若き文芸批評家による、いわば、 生々しい嫉妬に満ちた作家論 とでもいうニュアンスが面白かった記憶がありますが、それからの50年、記憶に残っているのは蓮實重彦「大江健三郎論」(青土社)と尾崎真理子「大江健三郎全小説全解説」(講談社)の2冊くらいです。 蓮見重彦の大江論は、作家自身が批評家の物言いを嫌ったということで、当時評判になった記憶がありますが、対象に対する視点の独特さが、いかにも蓮實重彦というニュアンスで、大江論の中では出色の面白さでした。 尾崎真理子の「大江健三郎全小説全解説」(講談社)は小説全集の解説ということもあって、全作品に対する言及が特徴で、今の時点では入門であれ回顧であれ、とても便利な本ですが、500ページを越える大著で、 まあ、とにかく分厚い(笑)。のが特徴でもあります。 で、見つけました。 司修「さようなら大江健三郎こんにちは」(鳥影社)です。 市民図書館の新刊の棚にありました。2024年3月3日の新刊です。司修は、長年、大江の著書の装丁、挿絵の仕事を続けてきた人ですが、ご自身も小説をお書きになる作家でもあります。 で、こんな書き出しです。 序 この、文章をお読みになられて、ようするに、大江の著書に対して、その装丁者という関係の、個人的な思い出が綴られているという印象をお持ちだと思います。で、確かに、そうではあるのですが、1冊の本になった作品に対して装幀するとはどういう行為であるのかということが、司修という人においては、想像を絶していて、読むことなくして装幀・挿絵はあり得ない、装幀こそ作品批評そのものであり、作家の思想に対する、まさに現場からの問いかけの作業だったということが、全編に通底しています。 たとえば、この序章は、大江健三郎の最後の作品集「晩年様式集イン・レイト・スタイル」(講談社文庫)の一番おしまいに載せられている「詩」の最終連、それはこんな詩句ですが 私の中で ここから始まる追悼の文章のには、まず、この詩の文句を響かせていることの宣言のようなものですし、本書の最後には、「晩年様式集」(講談社)の装幀を引き受けた旨を伝た ウエスキー!というハガキの返書として届いた、大江健三郎から司に宛てられた最後の手紙の引用がありますが抜粋するとこうです。 あなたのお葉書を光が読んでニコニコしている・・・・(中略) 大江光君が、司の葉書を見て喜んだ理由は、そこに書かれている暗号のような ウエスキー!それはマルコです。 にありますが、そのあたりの謎解きは、本書をお読みください。なにはともあれ光を喜ばせる暗号であったということです。 これに対して、司修の感想が 私はふと、「晩年様式集」の、「五十年ぶりの「森のフシギ」の音楽」にあった、「きみの立てた大きな音を聞いてわかった。きみはシューベルトの即興曲を聴くたびに、バレンボイム、サイード、そしてなにもかもをを結んで思い出していた・・・・」というわけです。 まず、単行本、「晩年様式集」の見開きには光の肖像のスケッチがあります。そして、カヴァーのデザインは、楽譜です。また、「晩年様式集」の作品中には、長江さんがエドワード・サイードにもらって、宝物にしている楽譜にアカリが書き込みをしたことを叱った長江をアカリが批判する、哀切極まりないシーンがあります。 司修の、ここでの発言と装幀とは、その部分に対応しているのですが、その部分は、実は、ボク自身にとっては、今年、2024年の6月に見た佐藤真の「エドワード・サイードOUT OF PLACE」という映画のラストシーンとも直結します。 そのあたりの、本書によって喚起されるイメージの連鎖のリアリティは、作品を読んでいた時には、もちろん気づかないわけですし、あの映画を見ていない人には何のことだかわからない話なのですが、ボクにとっては、あの作品集の中の、まさに、その部分に司修の視線が注がれていたことは、異様な面白さでした。 本書には、それぞれの章にそういう意表をついたイメージ喚起力があって目が離せない印象で読みましたが、全編の目次はこうなっています。 序 目次をご覧になると、たとえば、宮沢賢治と大江健三郎という視点がありますよね。司修自身の賢治童話集の仕事との関連で言及されているのですが、ボクは、この本を読む迄、全く気付かなかった視点でした。 たとえば、ジョバンニの 「カンパネルラ、僕たちは一緒に行こうねえ。」 という、カンパネルラと交わした最後のセリフが、大江の「取り替え子」という晩年の作品の底に聞こえるという指摘なんて、もう、 「ああ、そうか!!!」 を越えていました。 で、1行だけのあとがきでこう書いていらっしゃいます。 あとがきウーン、描いている人が普通でないと思うのですが(笑)、でした。
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最終更新日
2024.09.24 08:18:29
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