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カテゴリ:映画「ちょっと遠くの映画館」でお昼寝
トッド・フィリップス「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」109シネマズハット 前作「ジョーカー」で圧倒されたホアキン・フェニックスが、
今度はどんなジョーカーを演じるのか? まあ、そんな気持ちで、神戸での封切、初日に見ました。 トッド・フィリップス監督の「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」です。 最初から、最後まで、刑務所にとらわれている男、 道化師アーサー・フレックの物語 でした。彼が、悪の化身をであるジョーカーと道化師アーサーとの、まあ、いってしまえば行為に対する責任能力を問えない病的な二重人格なのか、あるいは、死刑に該当する、単なる、衝動殺人犯なのかを裁判で争うストーリーでした。 裁判は、白か黒か、責任能力が有るか無いかを問う論旨で展開するわけですが、ホアキン・フェニクスは異様なリアリティで境界線を生きる道化師アーサー・フレックの存在を熱演します。そこは、やっぱり見るだけの価値があったと思うのですが、しかし、前作のような 底知れない「悪」の不気味さ! のパワーはもう感じませんでしたね。 前作で説明不可能な得体の知れなさこそがその本領であるはずだと感じていたジョーカーという存在に対して、この映画では、精神病理的な客観視が端から持ち込まれていたからだとボクは思いますが、実はもう一つ、まあ、これも病理社会学的概念だと思いますが、「フォリ・ア・ドゥ」と副題された 共振する狂気という、具体的にはレディ・ガガという女優さんが、かなりがんばって演じていたリーという女性が、その象徴的な役回りだったのですが、「悪」の「共狂い」的な設定というか、妄想が共振し、それを見ている人が共有していく社会性を描こうとする方向性に、何となくのっていけませんでしたね。 おそらく、その共有感は、映画を見ている人に対しても期待されているということなのでしょうね。たとえば、アーサーに母殺しを意識させ続けているあたりとか、リーのキャラクターとか、歌とアニメを使った妄想シーンの演出というか、脚本は、いかにも、母原病(?)的な傾向を深めている現代社会を意識している気がしましたね。 裁判所のまわりで騒ぐ人々や、刑務所内での囚人たち、看守たちの振舞いにも、まあ、それから「衝撃的結末」ですかね、あそこにも、その設定が投影されていると思うのですが、 「うーん、なんだかなあ???」でした。 まあ、しかし、ホアキン・フェニックスが、 大した役者だなあ!という評価は変わりませんね。拍手! 監督・脚本 トッド・フィリップス 脚本 スコット・シルバー 撮影 ローレンス・シャー 美術 マーク・フリードバーグ 衣装 アリアンヌ・フィリップス 編集 ジェフ・グロス 音楽 ヒドゥル・グドナドッティル キャスト ホアキン・フェニックス(ジョーカー) レディー・ガガ(リー) ブレンダン・グリーソン(ジャッキー) キャサリン・キーナー(メリーアン) ザジー・ビーツ(ソフィー) リー・ギル(ゲイリー) 2024年・138分・PG12・アメリカ 原題「Joker Folie a Deux」 2024・10・11・no132・109シネマズハットno52 追記 2024・10・16 前作「ジョーカー」の感想がありました。似たようなことを書いています。よろしければ、のぞいてみてください。
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最終更新日
2024.10.16 23:50:05
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