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カテゴリ:神我顕現
本日の本題に入る前に、前回のお話の補足をしたいと思います。 前回の日記にて「神は人の手によって造られた物に宿らず」と書きました。 そのことをイエスさまも、マクドナル・ベイン氏を通して語っておられます。
世とその中にある一切を創造(つく)り給い、天と地との主であり給う神は、 手もて造られた神殿などには住み給わず、人の手によってつかえられ給わず、 また、何ものにも欠乏し給うことはない。 なぜならばすべての人々の生命と息とを与え給うたのは神ご自身であるからである。
偶像や肖像(にすがた)は心の中にある象徴にすぎない。 そのようなものより得るところはほとんどない。
それでは、今日の本題に移ります。 これも宗教的なものでありますが、どのような意味があるのかを知花先生は教えています。 今回は仏教に関するものです。 1護摩炊き 2お坊さんの坊主頭 3上風にトイレを作らない 4行水 5線香 では、順番に説明していきましょう・・・ 1.護摩炊き…古代の拝火教・バラモン教の残りでありお釈迦様の教えでない。 今のそれはバラモン教と仏教とがミックスされたものである。 儀式的なものは効果がない。 心が汚れていたら、それを行っても効果はない。
2.お坊さんの坊主頭…釈迦の時代、帰依者が何千人と集団生活をしていた。 水がなく川辺に修行場を造っていた。 あるとき大変なしらみが発生した。しらみは洋服にも大量に落ち 真っ白にまた脇毛にまでもついた。 そのために、頭を剃らせた。
3.上風にトイレを作らない…釈迦の時代、修行場にトイレがなく山の中で用を足していた。 そこからペストという病原菌が発生しお腹を壊して多くの人が 亡くなっていった。 その時から、トイレは上風に置かないという理ができた。
4.行水…お釈迦様が悟りを開かれた後、川で行水され体を洗い清められた。 これが行水という儀式が始まった。 インドなどでは、行水すれば悟れるという考えがあるようだが 行水の本当の意味は己の自我や心の垢を落とす事である。
5.線香…釈迦の時代、山の中に修行場があったためブユにさされることが多く悩みんでいた。 ブユ対策として、木の皮を剥いで石で突いてその汁を体に塗ったが 集団生活のため、その匂いが物凄く臭かった。 あまりに臭いので、臭いを消すために香を焚いた。 今でいえば香水と同じ役目だった。 その香がいつの間にか仏壇に載ってきた。 あくまでも線香は臭いを消すものであり、けっして霊を呼ぶものではない。 線香と霊は無関係である。
5つの例をあげましたが、事の始まりやその意味が判ると 本当に私達が教えられてきたものが滑稽であります 知花先生が、霊的ビジョンで見せられたそうです。 意識の世界では本当にひとつなのですね。 仏教しかり、キリスト教しかり、神道しかり、外の形にある儀式は意味がないんですね。 大師の方がおっしゃっているように、重要なのは心そのものなのですね。
最後にもうひとつ・・・ 今でも、苦行・荒行に励んでいらっしゃる方々がいらっしゃいますね。 お釈迦様が苦行・荒行という修行を体験して、「難行苦行、悟りにあらず」とおっしゃいました。 いくら苦行しても悟りは開けないよと教えて下さっています。 苦行とは肉体を意識していることであるとお気づきになったのです。 つまり目に見えるものです。 そこから方向転換して、瞑想を通して己自身を観るという修行に変えました。 つまり目に見えない世界です。 その意味することは、本当に大きいと思います
全ては大生命に満ちあふれているなり・・・ 我も大生命なり・・・
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Last updated
2017年04月29日 13時28分58秒
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