the・プロファイラー-赤塚不二夫-
「the・プロファイラー」のお題は赤塚不二夫(1/19放送分)「おそ松くん」「天才バカボン」の作者として知られる赤塚不二夫の人生を分析するまずは「フジオプロ」社屋で行われている展示会を訪れた人々を紹介して赤塚の生い立ちを紹介。 1935年に父の赴任先である満州国で誕生。小学六年生の時、手塚治虫の『ロストワールド』に大いなる影響を受け漫画家になることを決意。1956年に6月、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー。この後赤塚よりも3歳年下の石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。石ノ森氏のアシスタントをしつつ生計を立てていたが、トキワ荘同人の藤子不二雄(安孫子・藤本)や石ノ森がヒット作を飛ばすのを見てコンプレックスを抱くように。 1958年、ちばてつやの代原にトキワ荘の石森は赤塚を推薦し、秋田書店の名物編集者として知られる壁村耐三(70年代に「週刊少年チャンピオン」の黄金期を作ったことで知られる)は赤塚に読切漫画を依頼。『まんが王』(秋田書店)1958年11月号にギャグ漫画「ナマちゃんのにちよう日」を発表しブレイク。所々で自伝的漫画・エッセイの紹介、赤塚氏の長女・りえ子さん、当時の担当編集者と言った関係者の証言も登場この後アシスタントの稲生登茂子と結婚。「おそ松くん」誕生秘話は…サンデーでの執筆依頼を受けたことがきっかけ。当初は双子を主人公にしたコメディを考え、妻に提案すると「同じ顔が12人いたらどう?」と提案。12人は多すぎるので半分にしたいと赤塚は提案。こうして生まれたのが「おそ松くん」。チビ太にイヤミ、デカパン、ハタ坊と言った脇役も人気に。88年に放送されたカラー版を見たが、田中真弓のチビ太、肝付兼太のイヤミはハマり過ぎだったよなぁ67年には「週刊少年マガジン」から連載のオファーが来て連載したのが「天才バカボン」。アニメ化して人気を博したがOPの「♪西から昇ったお日様が東へ沈む~」「♪これでいいのだ~」のフレーズは今でも強烈。番組冒頭に「平成天才バカボン」OP「タリラリラーン・ロックンロール」(歌:嘉門達夫)も流されたが。 「天才バカボン」はバカボンとバカボンのパパが繰り広げる騒動が話のメインだが文字の羅列、劇画調にいきなりなる、コマが徐々に小さくなるなどの実験的要素が強いってのは意外。アニメしか知らないので。1973年に妻と離婚。1987年にスタイリストの鈴木眞知子と結婚。結婚にあたっては先妻・登茂子が後押しし、保証人になっている。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席。その際の思い出話をりえ子さんがしている。再婚は前妻の後押しでなおかつ前妻とりえ子さん記者会見で同席…って型破り。1967年にバラエティ番組の司会を担当したことから芸能界に進出。さらに様々な芸能人と交流を深め、タモリを見出したのは赤塚先生とのこと。今では漫画家がTVに出ることが珍しくないが(この回にはしりあがり寿が出演し、ヤマザキマリは歴史関連の番組でよく見かける等)、その元祖は赤塚先生とは。食道がんと診断された際は酒はやめないと宣言。これTVで見たことがあるなぁ。ガンと診断されてからは活動は減ったが、目が見えない人のための漫画を作ったって話は初耳2008年に死去したが、トキワ荘同人ってのは知ってたけどデビュー作が少女漫画だったとか芸能界に進出した漫画家1号とかプライベートの話は初めて知る話だったので面白かった