指先
夕べ、山葡萄をつぶしてジュースを作った。 長女が塗ってくれたマニキュアの、肌との境目が葡萄色にそまった。 今朝は無残にも、その葡萄色は茶色に変色をしていた。 もう何年も、指先を染めるという行為からは遠ざかっていた。 女廃業宣言をしたわけでもないが、いつしかピタリとやめていた。 そんなある日。 「母さん。たまにはおしゃれして良い男でも見つけなよ」 そう冗談を飛ばしながら、長女が爪をサーモンピンクに染めてくれた。 「そうね。良い男みつけなきゃね」 言葉を返しながら、少しもそんな気分になれない自分を発見した。 わたしは実に惚れっぽい。 だから、いつも頭の中には素敵だなーと思う男性が住んでいた。 ところが惚れっぽいけど、飽きっぽい。 年中入れ替わり立ち替わる。 長女が染めてくれた指先は、そこだけが妙に艶かしかった。 そういえば、亡き母はものすごく美しい人なのに、死ぬまで化粧をしなかった。 子育てに、生活に忙しい母には、自分を飾る時間も金もなかったのだ。 指先なぞ、一度も染めたことはなかっただろう。 きりりっと結い上げた髪型はずっと昭和の母の姿で、白い割烹着が良く似合っていた。 そんな母に少しでも華やいでもらいたくて、わたしは母の顔に無理やり白粉を塗ったことがあった。 日焼けした顔に白粉はなじまない。 不自然で、少しもきれいに仕上がらなかった。 母は若い頃、○○小町といわれていたらしい。 と言っても物心ついた頃には、すでに日焼けした労働者の顔だったのだけれど。 出来上がった顔を鏡で見るなり、母は慌てて顔を洗った。 「チンドン屋みたい」とつぶやきながら。 今更なじまない化粧は、母を美しくしなかった。 指先を見て、亡き母のそのシーンを思った。 母は、死ぬまで女には戻らなかった。 ずっとずっと母親で、今もわたしの胸の中にいる。