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テーマ:今日のBGMは・・・?(687)
カテゴリ:癒し・励まし系
朝、アッシーが済み、ほっと一息。携帯でツイッターを開くと、いつもと違う空気に身が引き締まった。TLには16年前の今日を語る書き込みが続々流れていた。
あの日、私は第二子の出産を控えた幼稚園ママ。揺れは感じなかったが、ニュースの映像に目を疑い、異常な腹部の張りを感じた。お腹の子も緊張し、悲しんでいたのかもしれない。息子もまもなく16歳。震災で犠牲になった乳児や、生まれることなくまだ見ぬ母と天に召された小さな命の多くは、生きていれば同じ学年だったかもしれない。 当時私はダイヤルアップ回線のパソコン通信をROM(読み逃げ)していた。携帯もネットも普及しておらず画像はないがTVや新聞より情報が早く、生の声が読めた。ただ、ライフラインが止まり、避難所の被災者はとてもPCができる環境ではなかっただろう。身内や知人の行方を案じる書き込みが猛スピードで流れていた。今朝のTLに、あの日を思い出した。 東京と現地では温度差が大きい。被災者の思いを読むだけでなく伝えたいと痛感し、ここにRT(リツイート)させて頂くことにする。「満月の夕」は今日TLで教わった。この曲に癒され、励まされた人が多いそうだ。残念ながら関東ではあまり知られていないので紹介する。合掌。 ・阪神淡路大震災から今日で16年。犠牲者の方々のご冥福をお祈りするとともに、いまなお苦しみに直面されている方々に心からのエールを送ります。こうして穏やかな気持ちで冬の青空をながめられることに感謝をしながら。乙武洋匡 ・阪神淡路大震災から16年。亡くなった方のご冥福を祈る。あの震災が、どれだけ多くの人の生活や人生を変えたんだろう。私たちは、たまたま災害を免れ生きているだけなんだろうな。だから、今できることをがんばってやらないといけないんだろうな。そんなことを気付かせられた。江川紹子 ・今日は16年目がどう報道されているかを確認する日。 ・今朝は5時半に目覚めて黙祷。なぜかこの日は目覚しより数秒だけ早く目覚めます。軽い緊張をしているのを感じます。 ・東京から関西へ来ると、震災についての雰囲気がまったく違うのを感じる。1月17日が近づくと、緊張する。 ・あの日の地震の激しさと、見慣れた街並みが崩れ去った衝撃。日常生活が奪われた辛さ。戦争を直接体験してはいませんが、平和でなきゃ!と身に染みます。震災で生活の秩序が破壊されます。人生設計そのものを変更せざるを得なくなります。 (以下連続RT)平成7年1月17日午前5時46分…今年で16年、阪神淡路大震災でお亡くなりになられた6400余名の御霊に、また被災されたすべての方に、心よりお見舞い申し上げます。黙祷 あの日、私は大阪市内からたまたま立ち寄った宝塚市内の姉宅で被災。居間でウトウトしていたら、物凄い地鳴りと揺れ。物が倒れ、すべて割れた。後で知ったが私の枕の上にはエアコンが落下していた。 揺れが収まり、足の踏み場もない部屋から這い出し、窓を開けると辺りは真っ暗。あちこちで怒鳴り声と叫び声が響き、誇りっぽい空気とガス臭さで大変な事になっていると感じた。冬の朝なのに寒さは感じなかった。 家族の無事を確認し、倒れた家具と割れたり壊れたりした物を押しやり、何とか外に出られたのは夜が明け始めた頃。サイレンの音や瓦礫を踏み分ける音が聞こえ、煙が見えた。特に神戸方面がひどく、やっと被害の大きさがわかった。 明るくなって周りの状況が判るにつれ、とんでもない事が起こったと知った。姉のアパートは全体に傾き、向かいの家は潰れ、数人が救出作業をしていた。電柱は傾いたり倒れたりで、道路は陥没していた。 目の前に倒壊家屋に埋まってるのに…私は連絡要員だと言い聞かせ、動き出した。火事の家もあったが消防は来る気配もなく、水も出ず、住人が茫然と立ち尽くしていた。普段なら実家までバイクで20分位だが一時間以上かかった。幸い実家は無事だったので、水と食料を積めるだけ積み、トンボ帰り。向かいの住人が遺体で運びだされるところだった。遺体を運ぶ人、火事を茫然と見つめる人、倒壊した家を片づける人…不思議なことに、涙を流す人はほとんど見なかった。人間あのような究極の状況に追い込まれると感情より本能が先に立つんだろうと感じた。私も涙が流れる事はなかった。 お昼に実家に帰ると、母がおにぎりを大量に作ってくれていたので持ち帰り、姉のアパートや近所の人に配った。その日初めての食事という人ばかりだった。食料を持ち寄り瓦礫でかまどを作り、テントを張り、既に協力体制が生まれていた。午後はずっと実家と姉宅を往復し、物資を運んだ。倒れた電柱は住民が片づけだし、陥没した穴は瓦礫を放り込んで補修した。むき出しのガス管からの漏れが恐怖だった。 暗くなっても電気は点かず、真っ暗になっても救援は無く、避難所の小学校は満員。瓦礫を燃やし暖を取り、エンジンのかかる車に子供を寝かせ、姉夫妻は近所の人たちと焚火を囲んで夜を明かし、私は実家へ。当日の昼頃には、皆、これは誰にも頼れず自分たちで何とかしなきゃと感じていた。被災者の事そっちのけで震災の原因は?と放送したテレビ局への怒り。その夜は、揺れ・音・空気・煙・臭い・遺体・血…色んな事が思い起こされ、中々寝付けなかった。翌日、大阪に連絡しようと北上。三田辺りでやっと公衆電話が繋がり、勤務先に消息を伝える事が出来た。 二日目は近所の人にバイクを借り、物資搬送。帰りは姉一家を一人づつ後ろに乗せ、実家へ避難させた。車で大渋滞。なんでこんな時に車?緊急車両通さなあかんやろと何度も怒鳴りつけたくなった。災害時、車は移動より家代わりだと思う。 三日目はバイクに物資を満載し神戸へ。近付くにつれ被害が目立ち始める。特に高速の倒壊現場はひどかった。下敷きになり燃えたトラックには焼死体がそのままに、倒壊家屋には家族が埋まってますという張り紙。国道43号線は悲惨な状況。三日目に辿り着いた三宮は瓦礫だらけ。ビルが横倒しになり、センター街は看板が垂れ下がり、物が転がって歩くのもままならない状況だった。 震災の時協力してくれ、神戸の親戚を探しにバイクで連れて行ってくれた人が今の旦那。震災体験の強烈さを風化させるなんて出来ない。当時言えなくても最近になって言える事もあるので年に一日だけ語るようにしている。(了) ・東京にいた。地震には気付かず、TVでどこかの内戦みたいな光景が。実家は四国だが兄や親類が阪神地区。家に電話、とりあえず全員無事。御影は断水で生活困難になり、ポートアイランドは液状化した。 ・あの時お腹にいた娘も今年は16歳。震災直前と、震災一年後~復興時代、関西にいたので感慨深い。鎮魂の祈りを捧げます。 ・激震指定地域の周辺、比較的被害の少なかった所の悩みは、物が無いって事。お金があっても物がない。スーパーやコンビニの商品はあっという間に消えた。水を手に入れるのも大変。 ・ライフラインが止まり、ラジオだけが頼り。倒れた高速は後日現場を通り、初めて見た。映像がなくて知りたい事が判らず、みんな困り果てていた。 ・実家は全壊。生活や自宅を元通りに再建するまで5年かかったが、地震が縁で友人だった彼と結婚。色々あったけど、悲しい事だけでなく地震が取り持ってくれたこんな人生もある。 ・私たち八百屋仲間も毎週野菜を積んで神戸にトラックを走らせた。落ちた高速、潰れた家やマンション。公園で暮らす被災した人達。その光景を脳裏に焼き付け、戻ってから周囲に伝えた。あの時ほど人と人のつながりに感謝したことはなかったと思う。 ・神戸の実家の母は、苦しくなる、思い出したくないと、震災関連番組や報道を今も避けている。言葉にすることが出来ない苦しみを抱えている人たちも多いと思う。思い出すと苦しいから震災特番も見聞きしたくない人たちも結構いる。そういった苦しみにも思いを寄せたい。 16年前の今頃、月は不気味に赤く東灘の街を照らしていた。あの夜は、妙に静電気が激しかった。はっきりと空気を覚えている。あの瞬間、窓枠が青光りしたのは何千もの魂が天に昇った、その輝きだったのかもしれない。猛烈な甲高い破裂音と共に食器棚は床に叩き付けられ、大型テレビが闇の中で部屋の中をゴロゴロと飛び跳ねていた。天井がきしむ音や、ピキッ!ピキッ!と窓がひび割れる音色が不快だった→ →やがて神戸の街が白み始め、警報ベルが複数鳴り響いていた。静かな空気の中、不協和音を響かせながら。毛布を頭から被った人々が、亡者の行進のように、避難場所の住吉小学校の方に向かって歩いていた。崩れた病院の屋根瓦の上に、年老いた医者が呆然とパジャマ姿でしゃがみ込んでいる。きっとご家族が中に…。ずっと、阪神淡路大震災当時のニュース報道映像を避けて過ごしてきた。無意識に。目をそらせて。見ると涙が出てくる。息が苦しくなる。でも何も無かったようにすることは出来ても、それがなかったことにはならないことに気づき始めた。もし16年前のあの朝に戻れたら、もっとたくさんの人を救えたかも知れないという思いが、毎年頭を巡って目眩がしそうになる。 ・被災者の裾野は広く、ちょっと壊れたりライフラインが止まったりしている自宅や親戚友人宅でじたばた過ごした人たちがたくさんいた。今後都会の災害ではそういう人たちが大量発生するはずだ。 ・地震の前夜が真っ赤な月だったから今でも月が赤いと怖い。ケースから出して楽器を剥き出しで置いておくのが怖い。地震で壊れたギターを思い出し、パニックになる。 ・全壊は免れたが家の中に隙間が出来、階段がずれ、壁は落ちそうで外壁はひどい状態。余震のたび、ギシッと音がし、潰れはしないかと怖かった。 一緒にいた猫は、そのたびにおもらし。 ・近所の人との繋がりが有難かった。繋がりによって周りの被害状況が早くわかった。 ・震災がきっかけとなり外国へ移った人がいた。周りの人が亡くなり、その人も職を失い、「だったら好きなように生きよう」と。 ・もう、物は要らないとあの時つくづく思ったにもかかわらず、また不要な物が溢れている。 身軽が一番。健康が一番。どんな時も強い自分であるには、前向きな、そしてくじけない明るさかな…。 震災の日に思うこと。 ・避難所で見たTVで、もし阪神淡路大震災レベルの震災が首都に起こったらというシミュレーション。当時は報道に対して腹立つ事ばっかりやったけど、今なら冷静に見れる気がする。神戸の教訓を生かしてほしい。 ・関西夕方6時のニュースは全部阪神大震災特集。どんだけ重たいのかを、神戸市民じゃなかった私達家族はニュースで学んでいる。幼稚園でも先生がお話してくれたそうな。学んで伝えてくのが今ここで生きる人達のやるべき事。 ・現地で生き死にを体験した人も、遠くから惨状を眺めるしかできなかった人も、人生において大切な教訓をあの日を境に一気に学び取ったんだなあと今日のTLで実感。 ・一日でも健やかに生き延びていてください。そして当時の事や必要な備えを語り継いでください。生きていてくださってありがとう。 ・関西を離れて今朝の追悼の様子が見れなかった方へサンテレビさんの 映像 今日は百恵ちゃん52歳の誕生日。「しなやかに歌って」には「80年代に向かって」のサブタイトルが付いている。 満月の夕 19歳 みんなひとり 蕾 その街のこども お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年01月19日 19時10分37秒
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