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テーマ:今も心に残っている歌(675)
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3月7日生まれの皆さん:ラヴェル、安部公房、河内桃子、上村一夫、上條恒彦、谷垣禎一、林静一、マシュー・フィッシャー(プロコル・ハルム)、ピーター・ウルフ(J.ガイルズバンド)、岡まゆみ、オール阪神、高市早苗、広田レオナ、矢沢あい、王理恵、羽田恵理香(CoCo)、川越達也、竹本英史、長谷川博己、馬渕英里何、山川恵里佳、石崎ひゅーい、永山絢斗、菊池風磨(セクゾ)
指揮はフランスの作曲家モーリス・ラヴェル 進級・進学で新しい教科書が手に入ると、真っ先に音楽の教科書を開き、曲名や楽譜をチェックし、レコード鑑賞の時間は毎回ワクワクしながら聴いていた。当時の鑑賞曲は今でもタイトルやメロディをほぼ覚えている(気がする)。中でも一番記憶に残っている曲は高1で聴いたラヴェルの「ボレロ」。他の教科でウトウトしたことはあったが 音楽の時間に居眠りしたのは後にも先にもこの曲の時だけだったから 昼下がりの光差し込む音楽室、スピーカーから流れる調べは単調なメロディとリズムの繰り返し。(ストーンズの「黒くぬれ(Paint It Black)」を初めて聴いた時も思ったが、今風に言うとAメロBメロAメロBメロ…でサビがない感じ。起承転結だと起承起承…のイメージ)ずっと同じリズムを刻み続けている打楽器奏者は飽きないのかなぁ、疲れないのかなぁ、なかなか出番が来ない奏者や順番が終わった奏者は眠くならないのかなぁ…などとぼんやり考えながら聞いているうち、ゆらぎ成分でも入っていたのか、いつの間にか夢の世界に。。。オーラスのそれまでにない不協和音のような「ジャカジャ ジャカジャ ジャン!」にビクッとし、自分が今まで寝ていたことに気付いた。他にも居眠り組が数人いたのか、この曲では毎度のことなのか、先生からは何のお咎めもなかった、と思いたいが、その後のことはさっぱり覚えとらん あんなに眠かったボレロだが(ラヴェル先生、ごめん)長ずるに及んでクラシック番組やバレエ、フィギュアスケートなどで動く映像と共に入ってくる機会が増えると、あら不思議。ちーっとも眠くないわ 耳だけで入った時は単調に感じても、目で演奏者やバレリーナ、スケーターの動きを追うと、最後まで起きていられるんだよね(って失礼な…)「黒くぬれ」然り。(ごめんよミック)本や映画と同じように、同じ曲も数十年経って耳にすると、タイムマシーンに乗って聞いていた時代に帰れたり、新たな発見があったりする。時代背景や作者や演者等のエピソードを知ると、新たな視点が加わり、違った印象で聞こえるのが面白いなと思う。 家にあるレコードかテレビぐらいしか音楽を聴く手段がなかった小学生の頃、何の番組だったのかは覚えてないが、「青い影」のシンプルで美しいイントロが耳に残り、いい曲だなぁと思った。メロディを耳コピし、ピアノで(右手だけで)弾いた。同じ頃、同じ曲に衝撃を受け、作曲家になろうと思った中学生ユーミンは、バッハの「G線上のアリア」を彷彿とさせる 教会音楽のようなこの曲をベースに、デビューアルバムのタイトルソング「ひこうき雲」を作ったという。その数年後のシングル「翳りゆく部屋」にも同じニュアンスを感じた。 2012年発売のベストアルバムで、ユーミンはルーツソングの「青い影」をカバーし、プロコル・ハルムと夢の共演ライブを行った。第一希望の都内公演ははずれたが、幸運にも追加公演のチケットが取れ、横浜で聴いた。マシュー・フィッシャーの弾くオルガンのイントロと、ゲイリー・ブルッカーの歌声を生で聴き、ゾクゾクしたのはもちろん、ユーミンのピアノ弾き語り「ひこうき雲」「雨の街を」「ベルベットイースター」に落涙。ユーミンが「ひこうき雲」で「青い影」を、「雨の街を」で母校の小さな部屋で弾いたピアノを思い出すように、私は実家の、今はどこかにもらわれていったピアノや、友だちと歌った放課後の音楽室を思い出す。 ユーミンと交流があったフロントマンでボーカルのゲイリーは、先月、旅立った。 2008/6/13 G線上のアリア 2007/5/22 ひこうき雲 / 荒井由実 友人 菅田将暉くんに提供した「さよならエレジー」のセルフカバー。「石崎ひゅーい」が本名と聞き、ルーツはヒューイ・ルイスかなと思ったら、母親がデヴィッド・ボウイファンで、息子の「ゾーイ」に影響を受け、名付けたそうだ 適当な当て字にせず平仮名にしたのは読み書きしやすいからだろうか。当て字といえば、ボウイがステージ上でよく身に着けていたケープには「出火吐暴威」と漢字ででかでかと書かれていた。山本寛斎のデザインで、白地に赤と黒でヤンキーの特攻服の裏地みたいな派手な縦書き。MUSIC LIFEのグラビアで見た個性的な衣装に、なんでそんな字を当てるかなぁ…と思った。ひゅーいくん、吾郎ちゃんのラジオ番組「The Trad」ゲスト回では共に大ファンのボウイの話で盛り上がっていた。推しが一緒だと年齢なんて関係ないもんね 3月7日の出来事 1778(安永7)イギリスの探検家ジェームズ・クック(キャプテン・クック)ハワイ諸島のカウアイ島に到達 1866(慶応2)薩長同盟成立 幕末、薩摩藩と長州藩は朝廷における権力闘争などで対立していたが、薩摩藩内の討幕派台頭や幕府による薩長討伐計画の漏洩などで両藩は急速に接近。坂本龍馬らの仲介で薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩の木戸孝允が京で会見し、この日、6か条からなる盟約を結んだ。 1873(明治6)神武天皇即位日を「紀元節」と称することを決定 1876(明治9)グラハム・ベル 電話機の特許権を獲得 1900(明治33)未成年者喫煙禁止法公布 1908(明治41)青函連絡船運航開始 1918(大正7)松下幸之助が大阪市に松下電気器具製作所(現パナソニック)創業 1919(大正8)日本橋のデパート白木屋を会社化、(株)白木屋呉服店(現 東急百貨店)設立 1921(大正10)クロンシュタットの反乱勃発 ロシア革命後の内戦の最中、拠点の軍港クロンシュタットでボリシェヴィキ政権の独裁化に反対した水兵たち(ほとんどは農民から徴兵されていた)が「全ての権力をソヴィエトヘ!」というスローガンの下、自由選挙の保障、言論・出版の自由、政治犯の釈放、個人の財産の所有権などを要求して蜂起した。 1936(昭和11)ドイツがロカルノ条約を破棄し、非武装地帯ラインラントに進駐 1940(昭和15)斎藤隆夫 反軍演説 1937(昭和12)年に始まった日中戦争は当初の観測に反し長期化。この日、政府の戦争処理方針に異を唱える民政党の斎藤隆夫が帝国議会で演説した。彼は政府方針を「聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を閑却するもの」として非難。これに対し陸軍は、聖戦を冒涜したとして反発し、斎藤議員を除名。 1945(昭和20)連合軍ルーデンドルフ橋を占拠 1945年2月、ドイツ軍最後の大攻勢を退けた連合軍はライン川西岸に到達。レマーゲンのルーデンドルフ橋が無傷で残っているのを発見した。ドイツ軍が橋の爆破に失敗したため連合軍はライン川を渡ることに成功。ヒトラーは激怒し、下級将校4名を処刑した。 1948(昭和23)警察法・消防組織法施行 戦前の日本警察は、内務省警保局による中央集権体制で運営されていたが、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦により連合国軍の統治下に置かれると、GHQは日本の警察機構を天皇制の維持擁護を目的とした非民主的な警察体制であると断罪し、内務省の廃止を含めた全面的な見直しを要求。国家地方警察と自治体警察に分けるなど警察制度が大幅に改正された。 また、明治以降、警察の所管とされていた消防の任務範囲や消防責任などを市町村に移管する「消防組織法」がこの日施行された。これによって消防が警察から独立し、各市町村に消防本部、消防署、消防団が設置されるようになった。 1949(昭和24)ドッジ・ライン施行 当時、極度のインフレとなっていた日本経済の自立と安定のため、米国のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が財政金融引き締め政策を実施。この日、経済顧問として訪日したデトロイト銀行頭取のジョゼフ・ドッジ氏の立案で9原則が発表され、対日援助見返資金特別会計の新設、復興金融金庫、財政補給金の廃止など、国債償還を盛り込んだ超均衡予算を実施。収入以上の支出を認めないという、大規模な支出緊縮が実行された。 また、ドル/円の為替レートも一律360円で固定。その結果、日本のインフレは収束し、財政も黒字に転換した半面、中小企業の倒産や、合理化推進が招いた失業者増大を併発。社会不安を激化させ、経済恐慌も招き、日本経済は新たな局面を迎えることとなった。 【高校生のための政治・経済】日本経済史 戦後復興 このあたりは詳しく習ってないのでよくわかる解説動画で自習しましょ ドッジラインは6'15''あたりから。 1965(昭和40)公民権運動:血の日曜日事件 アメリカ合衆国アラバマ州セルマで、公民権運動のデモ隊が州知事の命令により武力で鎮圧される。 1977(昭和52)第1回アラブ・アフリカ首脳会議カイロで開催 1980(昭和55)山口百恵(21)が三浦友和(28)と婚約、同時に引退を発表 2014(平成26)日本一高いビル あべのハルカス開業 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月10日 09時09分49秒
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