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カテゴリ:里山での読書
日々の生活と隣り合わせな貧困問題 貧困問題が山谷(東京)や釜ヶ崎(大阪)、寿町(横浜)といった特定の地域に住む人たちだけのことではないということを教えてくれたのが公園で見かけたブルーシートや段ボールの路上生活者たちだった。それでも、それは特別の人たちのことと思っていたら、日比谷公園の年越し派遣村から始まって派遣切りやワーキングプア、ネットカフェ難民の報道が、貧困は決して特別の問題じゃない、日々の生活と隣り合わせのことなんだと気付かせてくれた。 じゃぁ貧困ってどんな事なんだと関心を持って読んだのが 『反貧困の学校 貧困をどう伝えるか、どう学ぶか』、 『反貧困の学校2 いま、はたらくが危ない』(宇都宮健児、湯浅誠編 明石書店)と 『「使い捨てられる若者たち」は格差社会の象徴か』(原清治、山内乾史著 ミネルバ書房)の3冊。 前者を読み終わっての感想は、この問題は一筋縄では解決しない根が深い問題だということ。景気や企業倫理の問題はもとより税制問題、教育問題、女性差別の問題、医療や保健・福祉の問題にまで広がりがあることを知った。とはいえ手をこまねいているだけでは、いけないほどことは深刻なようだ。 何はともあれ「労働者派遣法」の改正が急務のように思える。派遣会社は「自分で時間を選べる」「いろんな職場や労働を体験できてスキルアップになる」「派遣労働は希望して自らが選択している」というが、どうも実態はそれほど安易でないし楽観できそうもない。一度沈みだすと前の首相が行っていた「再チャレンジすればいい」など到底不可能なくらい雇用関係は厳しい現状にある。 「自由」という言葉を聞くと惹かれ、それだけで賛同したくなる気持ちが僕にはあるが、どうやら、ここ10年くらいの「新自由主義」といわれる政策に世の中全体がシテヤラレ、その弊害があっちこっちに社会のひずみととして生じている。セイフティーネットの社会福祉も必要なところに行きわたっていなし運用もシビアなようだ。そういえば7,8年前に生活保護基準が高すぎるって声高に批判されて弱者切り捨てがまかり通った。でも、ひずみの中から救済されずに悲惨な日々を送り、住まいを追われ路頭に迷う人たちがいるのも現実だ。知れば知るほど、この日本が成熟社会なんて誇っていられない気がしてくる。 後者の本で触れていたのが新自由主義をバックボーンにした教育における不平等と格差の拡大の実態だ。例えば学校での「ゆとり教育」も、この時期の教育改革の一つだが、平成14年に授業時間が小学校で418時間、中学校で210時間削減された。その結果子どもの学力が大きく低下した。しかし塾や家庭教師などで補完できる学力上位組の子どもたちには低下は見られず、塾などに行かない(行けない)子どもに低下が見られたという。こうした下位組の子どもたちの延長に、不況のもとで厳しくなった就職競争から安易に降りてしまい、手じかなアルバイトにつき、結果として使い捨てられていく姿と重なるものがあるという。子どもたちに夢をもたせられない社会、国ってやはりおかしいと思う。 久しぶりに農業関係や小説・エッセイ以外の本を読んだ。世捨てものみたいな気分で生きていても所詮は社会や他人との関係の中でしかで生きていけないのだから、こうした時事にも無関心であっていけないのかもしれない。このところ無関心を装っていた社会とのつながりを、ここらで少しだけ改めてみようかという気にさせられた本だった。貧困問題が少し見えてきた。その構造にも少し踏み込んで関心を持たねばならない思った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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