|
カテゴリ:里山での読書
難しい本の読後感
さて、この本のタイトルがふるっている。人と人以外の動物の関係を書いているが、人も勿論のこと動物だ。「動物はどこまで動物か」とかタイトルをいろいろ悩んだという。このタイトルのヒントをくれたのが京都の梁山泊主人の橋本憲一さんだと、あとがきに書いてあった。吟味された天然魚介と、旬の京野菜など、素材の持ち味を生かした割烹料理のご主人だが、美術品のコレクターであり、自らも陶芸をやり、エッセイや書くという芸に秀でた人の提案というのはうなずける。 『 多元化する「能力」と日本社会 -ハイパー・メリトクラシー化のなかでー 』 うーん これは何じゃい と思いながらも読み始めた。 というのは、前回紹介した『シニアー世代の学びと社会』の中で参考文献として引用されている個所が興味深かったから、先日返しに行ったついでに借りてきた。 難しいタイトルのわりに調査結果を分析して具体的で分かり易かった。何よりも説得力のある論理の展開が魅力的だ。 ハイパー・メリトクラシーとは「むき出しの」メリトクラシーの意味で、著者(本田由紀 教育社会学)の造語だという。メリトクラシーも馴染みがないが、「能力」ある人々による統治と支配が成立している社会を意味するという。 ちょっと前までのメリトクラシーな社会では、勉強を一生懸命すれば、まずは成績や学歴などを手にすることができ、学校を出た後の社会的地位もかなり確実に予測することができた。人々のたどるべき道筋が整えられており、人生における原因(努力)と結果(地位達成)の結びつきが明白だった。 ところが今求められている能力は、ちょっと違ってきたようだ。確かに経済界が求める人材像には、これまでの努力とはなじまない、主体性や独創性、プレゼンテーションやコミュニケーションの能力、論理的思考力などの能力がよく言われている。 このような、一人ひとりの人格や個性の中に踏み込み、「むき出しに」にするような能力がハイパー・メリトクラシーの社会だという。そこでは個々人の何もかもをむき出しにしようとする視線が社会に充満し一挙手一足投、微細な表情や気持ちの揺らぎまでが注目の対象となっている。ある面、個人の尊厳まで土足で入り込んでくる。 しかも、そうした能力は個々人の幼児からの日常的な生活環境、家庭(たとえばコミュニケーションのゆとりのある家庭とそうでない家庭)に大きく左右されるものだという。めぐまれた環境条件で、それを身につけることができた者は、力強くこの社会を泳ぎ渡ることができ、不十分な者は途方に暮れざるをえない。社会的不平等という問題もはらんでいる。 確かにそうだ。知らぬ間に、自分でも職場でそういう人材を求めていた。やれるかやれないかを斟酌せずに、ロジカルシンキングを当然と要求し、事業の随所でPLAN(計画) - DO(実行) - SEEあるいはCHECK(検討)をやってきた。これって、人によって当たり前でも、人によってまた随分と無理強いになっていたことだろう。 最近思うのだが、この歳になると、ある事柄や出来事、時には言葉にぶつかると、そこから過去の事柄や出来事を思い出すことが多くなるが、そのほとんどは良い思い出よりも、反省的なことが多いような気がする。僕の性格によるのだろうが、また脳の記憶というのは、そういうものなのかもしれないと慰めている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[里山での読書] カテゴリの最新記事
|