連れ合いだけは 何とか東京へ
3月13日の夕方に電気が通じるようになって情報が一挙に増えた。とくにWebサイトからの情報が増えるに従って、どうやら原発事故は予断を許さない厳しい事態に陥っているらしいことが徐々に解ってきた。
最初の頃の私の頭には、まだ水素爆発が起こったことと放射線物質が漏れ出したことが結びつかないでいた。大した量の放射線物質は出ていない、遠くにいくほど薄まって行くから人体への影響を与えることにはならないという政府の会見での説明を真に受けていた。怖いのは格納容器が爆発することにあると思い込んでいた。放射線が体に悪影響を及ぼすことは分かっていても、それはレントゲン撮影の時のように一瞬の被爆さえ気をつければ済むと思っていた。家のなかに居れば飛んで来る放射性物資を直接身体に触れずにやり過ごせて大丈夫だろうとタカをくくっていた。
だが時間が経つごとに深刻な状況にあるらしいことが分かってきた。連れ合いだけは、ここから出られるようにしなければ。気はせくが列車は止まっていて、いつ再開するかまったく見通しが立っていない。バスが仙台から新潟、山形をへ行くのがあるらしい。新潟まで行けば新幹線が通っている。仙台までの往復は軽油を満タンにしておいたパジェロでなんとかなるだろう。だが肝心の席は何日先までも満席状態だ。キャンセルがでないか二日間にわたってキーボードを繰り返し打ち続けた。願いは通ずるものだ。随分と先の日付だが1席だけ空きが出ているのにぶつかった。
私は昨年から集落の皆さんと J A や役場との農事に関する連絡係の役割を仰せつかっていた。輪番とは言え他から入ってきた新参者を信頼して選んでくれた手前、役割を放り出して逃げ出すわけにもいかない。ましてこれから作付や放射線に関する様々な情報を伝えなければならなくなることが予想された。地域が避難することになるまでは一緒に行動しなければならないだろうと覚悟を決めることにした。
チケット代の口座からの引き落としの手続きもすっかり終えた。ホッとしてテレビを見ているとテロップに、福島駅から東京駅八重洲口までの臨時の高速バスが出るとことになったと流れた。こちらのほうが新潟経由よりも速いし、もしかしたら出発日も繰り上げられるかもしれない。電話をするが一向に通じない。殺到しているのだろう。今度は電話をかけ続けた。百回近く掛けただろうか、諦めかけた頃に受話器口に女性の声が聞こえた。運が良かった。明後日の空きがあるという。予約を終えた。
6時過ぎの出発なので、念のため早朝の4時半に家を出る。まだ売り場の窓口は閉まっていた。待っていると、あっと言う間に100人ほどの列が出来ていた。電話で予約番号が知らされていたが、中には、予約せずに待っていた人がかなりいて係員と押し問答をして混乱した。すぐ後ろで待っていた女性は南相馬から来たという。数週間後に結婚式を控えて南相馬に来ていて地震に遭遇したという。婚約者も、そのご家族も無事だったそうだ。
バスに乗り込む連れ合いを見送ることができて、心底ほっとした。連れ合いも、その女性も並んで座っていた。