カテゴリ:お題なし
盛岡で8月末までやっている「人体の不思議展」を見てきました。
最初は、学術的に意味のあるものかと思って前売り券を買ったのです。 と言うのも、ダンナは医者を目指していたこともあるし、私自身も医療分野に関わっていたこともあったし、学術的に興味があったので。 その後、お仲間のブログからこの展示物に黒い噂があるのを知りました。 詳細は書きませんが、大まかに言えば、合法的に標本にしたものではないと言う噂。 この話を目にしてから、とてもためらっていました。 ダンナにも軽く「そういう噂があるんだって」と離してはいたものの、とにかく見に行こうということになりました。 私たちは、手術の現場を見ていても気持ち悪くなることはありません(実際に見たことはないけれど、断言は出来ます)。 学生の頃に大動物の解剖などもやったことがありますし、全く平気です。 血を見ても貧血を起こすこともなく、臓器を見ても気持ち悪いとも思いません。 が、澱のように胃の底の辺りを重苦しく漂う苦しさは何だったのでしょうか。 標本の作り方の説明を見ても、理論も技術もよくわかります。 しかし、そうしてまでこの標本を作る必要ってあったのだろうかと… そしてこの標本群を見て思ったのは、作ってから年月がたっているものだということ。 今であれば、CTスキャンなどで細かくスキャンしたものを、コンピュータ処理して 非常にきれいな模型を作ることなど朝飯前に出来る時代です。 今の時代に、こういう標本を展示する意味があるのだろうかと思ってしまいました。 脳のスライスの横に展示してある頭蓋骨。おそらく小柄な女性か子供のもの。 胎児の標本。しかも月齢ごとに並べてある(4体ありました)。 「全て生前の献体提供によっています」という但し書きがありましたが… 本当なんでしょうか。私にはわかりませんが… 黒い噂を髣髴とさせる特徴が全体標本にはいくつか見られました(私にはそう思えました)。 黒い噂は置いておくとしても 見物人のほとんどが珍しそうに見入っている姿が非常に印象的でした。 みんな、何を考えて見ているのだろう。 自分の近親者がこうなっていたらどう思うのだろう。 というのも、私の父方の祖父が献体をしたからなのです。 祖父が亡くなった時、私は高校生でした。 献体の意味もわかっていましたし、実際にお骨が帰ってきたのは葬儀から1年ほど経ってからのことだったのも覚えています。 今回見た標本には、人間の身体をまともに扱ったような感じがしなかったのです。 そういう意味で、私は重苦しさを感じたのかもしれません。 珍しい見世物でしかないような気がして。 2人で一応全てを見終わり、早々に展示場を後にしました。 外に出た私たちの後ろを歩いていた女子高校生の言葉。 「あ~、気持ち悪かった」 …同じものがあなたたちの身体を構成しているんだよ。 そこは感じなかったのかな。 そして、あの標本になっていた肉体には命があったんだよ。 そこを見落としちゃいけない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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