そう。人はいつも忘れるんだ。冬の寒さと、夏の暑さを。
一日の授業が終わって、友達二人と一緒にエレベーターに乗り込んで一階まで降りる。校舎の自動ドアを開けたら一気に冷気が僕を襲って、一緒に帰るはずの別の友達を数秒捜しただけで帰ろうと思った。先に帰ったんじゃない?と、エレベーターを共にした友達は僕に言った。振り返ってじゃあねと言ったけどエレベーターを共にした友達は気付いてくれなかった。歩みを早めたのは急いでいたこともあったけど、寒かったこともあったけど、恥ずかしかったのが一番だったかもしれない。バスまで辿り着くと、たまたま空いていた席に滑り込んで、残り八分の一程度になった本をトートバックから探して読み始めた。それから間もなくしてバスに人波が押し寄せて、ぎゅうぎゅう詰めになった。僕はイヤホンを耳に差して薄く音楽をかけながらゆっくりと着実にページをめくっていった。顔を上げて車窓から外を見てみたら、もうそこは駅の近く。軽い嗚咽感は、車酔いのせいだろう。そこから僕は本を閉じて灰色の空から降る透明でも目に見えるモノを見つめていた。ぎゅうぎゅう詰めのバスが蘇我駅に着いた。携帯の時計を見ると十七時五分。十七時一分にあった快速は無理だったけど、十一分にも快速は来る。あらかた人が居なくなってからバスを出ようと思ったけど、なんだか心が騒いで少し強引にバスを降りた。人口密度の減った世界はとても寒くて、ジャージの袖を伸ばして指を温めた。階段を駆け足で上るとSUICAを改札に押し当てて中に入った。階段を下りてホームへ。いつもの場所にいつもは人が居ないのに、今日は人が居た。間もなくして快速がホームに滑り込んで来た。問題なくいつもの場所に腰掛けて、トートバックから十分の一程残った本を開く。読み始めたら、やっぱりさっきのバスの乗り物酔いが残っていることに気付いたけどそんなことはどうでも良かった。一秒でも早くこの本を読み終えたかったから。電車は僕を乗せて動き出した。動いてるって感覚は少ししか感じなくて、僕は本の中にひたすら集中していたのだけれど。錦糸町に着いて、快速のホームから各駅停車のホームまで地下トンネルを歩いて向かう。各駅停車のホームから発車寸前の快速に乗り込もうと走ってくる人々。それをうとましく思いながら快速のホームから発車寸前の各駅停車に乗り込もうと走る人々。僕のベクトルはどっちかと言えば後者だったけど、歩みを早めるようなことはしなかった。その流れの一段上に居るみたい。そこの住人は僕だけじゃなくて、何人か居た。その後ろ姿を見上げたら、僕の未来が広がっている気がした。各駅停車に乗り込んで空いている数少ない空席に滑り込む。トートバックから残り少ないページとなった本を取り出して読む。両国。浅草橋。秋葉原。アナウンスが続く。御茶ノ水とアナウンスが流れた辺りで僕は本を読み終えた。心に枷が掛かったのを気付くのに時間はかからなかった。御茶ノ水に着いて、電車を降りる。いつもの光景が眼前に広がる。空を見上げると、細くて白い線が上から沢山降り注いでいた。でも、地面に着くまで目で追ってるわけじゃないから、本当に降ったのかはわからないんだけど。雨だからホームは混んでいた。ホームの端に降りて、いつもはその反対まで歩いて階段を上る。だけど今日はそんな気になれなかった。ホーム中程の階段を上る。そこの出口は千代田線の新御茶ノ水に乗り換える人の為の出口だ。階段を上る途中、ホームにある14才の母のでかでかとしたポスターを見かけたが、一向に志田未来はあさっての方向を見ていて、こちらに視線を向けようとしなかった。SUICAを自動改札に押しつけて外に出る。思った以上に雨が降っていて、思った以上に寒さに震えている人が居た。その中に僕も居るのだけれど。すると、携帯のお知らせランプが点滅しているのに気付いた。雪降らないかな~?なんてメール。降るわけない。雪の降る日はもっと寒いよ。なんて、少し微笑んでメールを返す。そう。人はいつも忘れるんだ。冬の寒さと、夏の暑さを。覚えているのは夏から秋に変わる涼しさ、寂しさだけ。冬から春に向かう暖かさや喜びなんて覚えていない。そういうもんだよ。駅から自転車までは少し時間が掛かる。距離的にはそんなに遠くないのだけれど、信号に掴まるとやっかいで。赤信号になっても青い矢印がその下に灯る。時折吹く強い風に傘が壊されそうになりながらも自転車まで辿り着くと、いつものように鍵を差し込み、右か左に回して錠を解いた。トートバックをカゴに入れて少し考えた。そして僕は傘をたたんで自転車に引っかけると、そのまま自転車をこぎ始めた。だって、せっかく良い傘なのに折られたら悔しかったから。どんどん体温が奪われていくのを感じながら僕は自転車をこぎ続けた。途中赤信号に出会ったら、屋根を探してほんの少しの雨宿りを繰り返しながら。家に帰り着くと雨に濡れたトートバックの中から鍵を探って鍵孔に差して右か左に回して中に入った。家に入ってすぐ横にある日本人形の前に家の鍵を置く。それからズボンの後右ポケットに入っている自転車の鍵を置いた。雨に濡れて少し重たくなったトートバックを玄関から放り投げたらイヤホンをしていたのを忘れてて、引っ張られた耳が少し痛んだ。乱暴にイヤホンを外すとトートバックの近くに投げ捨て、すぐ横にある脱衣所のドアを開けた。濡れたジャージ。首にしていた安全ピンのアクセ。柄が気に入ってるのに寒くてジャージを脱げなかったロンT。意外と濡れてないズボン。びしょびしょになった靴下。風呂に入ってコックを捻ると、熱湯が出てきて差し出していた手を引いた。そしたらその熱湯が跳ねて体に触れて、それがとても冷たい水であることがわかった。酷く冷えている両の手。捻って出てきた熱湯が丁度良い温度のお湯になるまでいつもよりもの凄く時間がかかった気がした。だから僕は冷め切っているはずの湯船に手を入れた。そこに丁度良い温度のお湯は大量にあった。蛇口から出てきている熱湯に手を触れたら、それは熱湯でも何でもなく、ただのとても熱いものだった。とっさに手を引くとその熱いものが体に触れて、それが丁度良い温度のお湯であることがわかった。手首から先が別のものみたいに丁度良い温度のお湯を拒否して、しびれ続けていた。真ん中が抜けている丸く小さい椅子に腰掛け、シャワーを高い方の場所にセットして、僕はそのまましばらくうなだれていた。そこから顔をあげて鏡を見る。大きな長方形の鏡の中に、曇らないようにコーティングされた小さな長方形の鏡が貼られている。そこの中に映る自分を見た瞬間、軽い眩暈がして体が揺れた。そうだ。乗り物酔いがまだ残って居るんだ。お風呂を上がると高揚感が更に高まって、乗り物酔いを強めていた。あらかた体を拭いて無人の家の中をトランクス一枚で歩き回り、珍しくドライヤーを髪にあてた。いつものように冷蔵庫を開けて、何か無いか探す。たまたまあったジュースを手に取って自分の部屋に行き、雨に濡れたトートバックから朝ご飯を取り出してパソコンの前にある万年床のソファーベッドに座った。朝ご飯の菓子パンの残りを口にして、僕は確認画面のボタンを押した。