地下鉄サリン事件 15年目の真相
~あの日、霞ヶ関で何が起こったのか~
1995年3月20日 午前8時過ぎ
私は、その日銀座で10:00に約束をしていた。
その当時、私はまだ学生で、広告代理店の小さな仕事を請け負っていて、
その日は、自宅で仕上げた原稿を持っていく予定だった。
午前8時に起きてシャワーを浴び、テレビをつけると、
テレビは既に地下鉄で何かが起こっているとの報道が始まっており、
私が乗ろうとしていた日比谷線も、その対象だと知ると、
テレビに釘付けになった。
その年は、私が学校をさぼって、家で仕事を始めていて、
昼夜逆転しており、1月に起こった阪神大震災も、
起こった直後から、テレビにかじりついていた記憶がある。
そして、このあとのオウムの一斉捜査もテレビで一部始終を見ていた。
結局、この日地下鉄は止まり、昼ごろには毒物がサリンと判明して、
地下鉄に乗るのが怖くなり、昼過ぎにJR有楽町から銀座に行った。
他の地下鉄を使うという手もあったのだけど、
JRの方が、またサリンが撒かれても気化してくれそうな・・・
よくサリンというものが分からないなりに、そんな風に思ってJRを選んだ記憶がある。
JRの乗客たちもなんだかソワソワしていたし、
当時銀座にあった会社に辿りつき、
そこには犯行の車両に乗っていただろう人もいて、
みんな不安を抱えながら仕事をしていた。
あれから15年も経った。
ドキドキしながら電車にのり、原稿を持っていった広告代理店は、
その後別の場所に移転したし、私もまた転職を繰り返し、
今はその代理店とは付き合いもない。
地下鉄に乗るたびにドキドキすることもないし、
車両に乗って不審物がないか確認することも無くなった。
でも、まだあの事件に苦しむ人たちがいる。
大切な人を失った人、後遺症を持つ人たちにとっては、
どんなに時間が経過しても、この事件は永遠となる。
高橋シズヱさん。
一人の主婦が、「被害者の会」の代表世話人となり、
記者と待ち構えたカメラの前で、物おじせず話せるようになるまでに、
どれだけの悲しみを抱え、どれだけの苦しみを味わったのか・・・
国が、被害者を救済するための給付金支給を始めたのは、つい最近。
この長い間、事件と向き合い戦い続けている彼女に、敬意を表したい。