カテゴリ:クールジャパン応援団 文化 ビジネス
昨日は「ヘブライ語約で君が代」を紹介した。
実はこの事については数年前から個人的に調べていたのだ。 なにも、ヘブライ語の約し方を調べていたのではない。 君が代のルーツを追っていたのだ。 この曲は追えば追うほど「ミステリアスな歌」なのである。 ただの「国歌」としてはあつかってはならない歌なのだ。 普通の話から始めることにする。 君が代は1880年(明治13年)に曲が「つけられた」。 林広守(1831-1896)と、もう一人はドイツ人でフランツエッケルトという人達により 西洋風和声がつけられた。二人とも音楽家であることは言うまでもない。 とにかく、編曲、作曲者達ははっきりとしているので次に行く。(後でここに戻る) 歌はとりあえず作者は未詳。和漢朗詠集の中の「古歌」が「君が代」だった訳だ。 ここからが、本題。 この「和漢朗詠集」は1018年頃、藤原公任(当時53歳)という歌人でもあり 当時の政治の「官僚」としても活躍をしていた人物が和歌216、漢詩588を選び、 まとめ上げたのがこの歌集なのであるが。。。 これはそもそも、公任の娘が、当時の権力者、藤原道長の息子と結婚することとなり オメデタイ贈り物として贈られた歌集なのだ。そのなかの一つの歌が「君が代の」原型 であり、最古の誰が何の目的で作られたがわからない歌なのだ。そして時代柄、「君」が 必ずしも「天皇」を指してるのではなく別の王朝を指していたりする場合もあるので、 「君=天皇説」はここまで。 さて、話は戻るが、公任はとても優秀な歌人であること。そして王様に知識を与えて 助けている存在の「官僚」である。その当時の文学家や貴族、官僚達は外国「漢」から の知識を大切にしていた。知ったかぶりをするには「漢詩」が定番だったのだ。「和歌」 は娯楽的、祝辞にと扱われたらしい。公任は和歌である君が代を、なぜ娘、婿夫婦達の為に 作者も不明の「歌」を縁起物の歌として歌集に選んだのか? この疑問を解くには11世紀の西アジアを考えなければいけない。 この頃トルコ系のイスラム王朝のガズニ王朝の台頭が著しく 北インドに侵入してイスラム化の契機を作った。 続きは明日。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.05.24 08:30:30
コメント(0) | コメントを書く |
|