カテゴリ:政治、思想関連
オイラが子供の頃は必ずと言って良いほど複数の雷親父が町内には存在していて
雷のように文句や注意をするオヤジとの コミュニケーションが取れていたんだ。 注意するオヤジをからかったり、説教を 受けたり、時にはオヤジの自慢話を長時間聞くこともあったんだ。 その頃の大人の社会には注意する文化が 当たり前のように存在をしていて他人の言うことに耳を傾ける事に対して其ほどの抵抗は無かったんだよね。 それが現代はどうだろうか?他人の子供を注意するとその子供の親はモンスタークレーマーとなり自分の事を正当化する 事だけに親のエゴイズム正義を振りかざす始末。 先月、法改正された自転車の件も周りの 人間が注意をして注意をされた人間が素直に注意を受け止めれば済む話。本当は。しかし、現実は注意を受け止めれば 注意をされた人間が殺傷事件を起こしかねないし、相手の攻撃から護身用の為に 刃物を持ち歩く人間も多いのも事実。 こうした時代の流れにより他人を注意する文化が消滅して来ているのではないだろうか? 好意で注意をして刺されて殺されたら 余りにも割りに合わないとなると見て見ぬふりをしてしまうのも十分に理解出来てしまう。余計なお世話、君主危うきに近づかず、言っていることは正しいが、 正しいが故に注意する正義が成り立たないのも事実。 法律案は所詮ただの言葉で記された約束事。個人の言葉の解釈で若干意味が変わってしまうしね。 法律に触れなくても悪事はいくらでも この世の中には存在するわけだしね。 法律をおかしていないから何でも有りと 言う考え方にも問題は有るよね、きっと 御免で済めば警察要らないと言われて 育った世代のオイラ。それだけ周りの 人間が注意をしていた時代だった。 その時は他人の好意的な注意を不服に 受け止めていたが、今となり注意をする 行為の大切さを身に染みて痛感している 自分がいる。 注意と文句の違いをしっかりとした言葉で表現をすれば再び注意をする文化が 戻って来るかもしれないね。そう願いたいが、皆さんはどう思うのだろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.04.02 09:41:30
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