カテゴリ:クールジャパン応援団 文化 ビジネス
3.kicks
日本に戻ってから思い出すロンドンは日増しに色濃くなっていた。エクスタシーではない。クラブシーンだ。これまでの自分の音楽は、一般的にラブソングを耳障りの良いメロディで歌う歌手と決めつけられている感があった。ラブソングは自分のベーシックだが、ライブではそうではないシャウト系の楽曲も多い。90年代半ばからバンドサウンドが主流になってきていることを感じていた私は、より一層シャウト系のサウンドに目を向けた。1997年のソロライブ「コンサートツアーID」では、バンドと一体となった男臭のするステージとなった。新しいモノが見え始めている。そのライブの終わりに、 「みなさん、次にお邪魔するときには隣にもうひとり居ますんでよろしく。」 と、締めくくった。いや、締めくくってしまったのだ。 世の中の流れを敏感に感じ取った活動をしたいと願うのは、どのアーティストも同じだろう。この時期CHAGE&ASKAでそれができるであろうか・・。オーディエンスは変わらないモノを求めると言いながら、意外性を求める。 良い意味で「期待を裏切る」というやつだ。ライブ曲を並べてみる。ライブの構成に入ってみたのだ。だが、やはり意外性を体感させることのできる並びにはならない。「CODE NAME 2 SISTER MOON」が最新のアルバムだったが、バンドサウンドを迎え撃つ楽曲は並ばなかった。 「世の中の流行に沿ってリスナーも動いている。いまCHAGE&ASKAをやるのは非常に危険だ。『何か違う』という印象を与えてしまうかもしれない。 まず、バンドサウンドを感じさせるアルバムを作らねば。」 ステージプランナーの久保、総合プロデューサーの渡部、音楽プロデューサーの北里、CHAGE。大いに悩んだ。私はクラブシーンの影響もあり、ソロ楽曲の駒は揃っていくのだが、CHAGE&ASKA用の楽曲は進まなかった。 その頃、ASKAバンドのメンバーと日々音楽談義をしていた。CHAGE&ASKAに欠けていたのはこれだった。顔を付き合わせて音楽の話をすることがなかったのだ。スタッフはそれを願ったが、それは実現しなかった。結局、ツアー発表のギリギリ間際になって、今回のツアーは見送ろうという判断を下した。断腸の思いだったが、CHAGE&ASKAをこれからも継続させるためには正しい判断だった。今振り返っても、あの時の判断に間違いはなかったと言える。 その後、直ぐにソロ活動を発表した。「次はふたりでお邪魔する」と公言しておきながらソロに切り替えることで、多くの批判を浴びることになるだろうと予測してはいたが、予測以上にそれは強かった。しかし、リスナーに気弱なところや本当の理由は語れない。批判を押しのける形でのソロ活動となった。 私は、書き始めていた楽曲を引っ下げてスタジオに入った。曲のテイストから、このアルバムはロンドンで録音しようという結論に達した。楽曲のベースメントは日本で録音し、オーバーダビング系はロンドンで行なうという手法だ。ライブを意識したクラブサウンドとロックの融合だ。その変貌に固定リスナーは困惑するかもしれない。しかし、ソロアルバムはあくまで実験だ。後に名盤と呼ばれるアルバムになることを信じて作業に励んだ。 ロンドン滞在中クラブに行くこともなく、リリース予定に間に合う最後の日までスタジオに入った。そしてアルバム「Kicks」(刺激)が出来上がった。ライブリハーサルではオーディエンスの顔が浮かぶ。賛否の否はあるだろうが、装甲車のように否をなぎ倒して行く構えでツアーに臨んだ。ライブはどの会場も盛り上がった。新しい手応えだ。前回の「IDライブ」の反響がそうさせたのか、この「kicksライブ」頃から一気に男性客が増えた。同性に指示されることは大きな喜びだ。そして、ロンドンからライブ撮影チームがやって来た。大阪城ホール4日間の後半日、3日目、4日目がライブ映像のシューティング日となっていたのだ。しかし、この日のライブがその後のアーティスト活動を大きく左右する出来事となってしまうことになるとは思っていなかった。 1日、2日目はいつもと変わりのないライブだった。中1日が喉を休ませるためのスケジュール構成になっていた。ところが、その休みの日に風邪を引いてしまったのだ。シャウト曲が並んだステージであったため、元々喉にかける負担は大きかった。そんな時に風邪を引いてしまったのだ。ロンドンからの撮影チームは綿密な打ち合わせを終えており、すでに設営に入っている。風邪を引いたからと言って、今更ライブを飛ばすわけにはとてもいかない。3日目のシューティング日のリハーサルは、少しでも喉を温めるため念入りに行った。普通は喉を庇って消耗しないようにやるのだろうが、私の場合は違っていた。歌って、歌って喉を開いて行く。リハーサルと本番の区別が無い。これはデビュー当時からのスタイルだった。その日は特に力を入れた。リハーサル終了間際でようやく声は出始めた。そのライブでは会場の真ん中から登場する演出になっていた。心中穏やかではないままライブは始まった。1曲目にオーディエンスのど真ん中で「同じ時代を」のフレーズをアコースティックギター1本で歌い、花道をエンドステージ中央に向かう。ところが、リハーサルで開きかけていた喉が開演までに冷えて元に戻ってしまっていたのだ。声が出ない。ライブは始まっている。だが、そんなことで躊躇してはいられないのだ。オーディエンスが見守る中、ライブは進んで行った。声が思うように操れない。それでもシャウトした。ステージ上で与えられた唯一の防御策は「怯まないで歌う」ということだけなのだ。最悪のコンディションだが、時間の進む方向どおりにシャウトを続けた。翌日も同じように酷かった。あのライブを作品としてリリースしたのは、それでも気迫が乗り移っていたと確信したからだ。 次回に続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016.01.24 10:54:42
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