たかが評論家、コメンテイターの分際で1人の人間の人権に関係するようなニュースに対して個人の考えや断定的な思想は必要ではないし、発言をするべきではない!なぜならただの民間人だし、司法の現場で働いている身分でもないからだ。言論、思想、報道の自由の捉え方が現在の法律や日本国民の教育レベルに見合っていないんじゃないかな?
これはネット民にも同じ事が言える。確かにネットの普及により個人が様々な意見を公に公表することができる世の中になったことで良い面もあるのは事実だ。かくいうオイラもそのなかの内の1人だから偉そうな事を言うつもりも無い。でも所詮は「ただの一般人」であり無責任なんだよ。そこには無責任で良い自由も存在しているから。だからなおさら誰かを裁くことなど出来ないし、裁いてはいけないんだよ。
今回の飛鳥不起訴で学んだ事はネットを通じての「人民裁判風潮」は社会に対してとても危険な風潮だということじゃないかな?魔女狩りと同じじゃないか!しかも理論的ではなく感情論が多すぎる。そして既存のテレビ局は視聴率の為だけに偏見がある報道に力を入れている傾向があるから信用はできない。何をどこまで追及することができて、事実を少し曲げて多少面白おかしくすることで大衆の興味を誘い、巨大な完全な事実とは反する結果を導いてしまう。我々は大衆心理操作の権利をマスコミに完全に委ねている事に気がつくべきじゃない?
だから以前は大手の新聞社や出版社に属しているプロの記者達を信じて情報を鵜呑みにしてきた。その結果として「正しい真実」は伝えられた事も隠されたことも事実。だけど現在の状況は余りにも個人が無責任にながした情報がネット上に氾濫している状態となっていて「正しい情報」が逆にうもれてしまっているから面倒な事になってしまっている。医者に対しても同じ事が言える。本来、病気になったり、怪我をしたら病院に行き、医者の意見に従うのが当たり前だったけど、病院代が払えなかったりでネットで簡単に検索して治療法や薬を個人の判断で決める事ができてしまう世の中になっちゃったじゃない?何故か?それは専門の人間だけが得ていた専門的な情報をいつでも、どこでも、誰にでも簡単に調べることが出来る世の中になってしまったから。だって所詮は生身の人間がデータに基づいて色々決めているんだからね。医者と一般人との差は情報量の知識と経験の差だけ。知識はあっても経験が足りず血を見て卒倒する医者もいるわけで。だけど、このままでは確実に将来は「医者要らず」の世界になってしまうのではないかと心配だ。人工知能やコンピューターでデータ化された情報の組み合わせで診断をすることになる将来が確実にすぐ目の前まで訪れている。(介護問題を含めて)ここでの問題は人間が持つ「勘」に頼ることをコンピューターには出来ないことだ。この「勘」こそが人間が持てて、機械には持てないものだよ、きっと...だから、その「勘」を保つ為にも人間と人間の繋がりを大切にして、それと共に機械と共存をしないと生き残れない具合になっていくんだよきっと...話がそれたけど、ニュースには個人の思想は必要ない!事実をただ伝えればいいだけ。
ネットもテレビもラジオもツールにしかすぎない。事実を判断するのは個人の責任。事実の追求は個人でやるしかないんじゃないか?みんなはどう思うのかな?
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