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その『遊会』でのおハナシ、ここも気になる。
当時、気鋭の編集長だった松岡さんが工作舎の受付にデスクを置いて、店主さながらに来客や電話に対応していたというエピソード。 これは『遊』という“出力”のための“入力”を得るためのものだったと云う。 この“出力”と“入力”の関係。 今夜はこれでひとりコーヒー・ハウスだ。 振り返ってみますと。 ◎一般に作品と呼ばれるものを“出力品”と呼ぶとすると、この“出力品”のためにはたくさんの“入力品”が必要だということ。むしろこっちのが重要。 ◎どんな表現形態においてもこのたくさんの“入力品”は見えないけれど確実に感じるもの。 ◎最近のワークショップへの関心は全部この“入力品”への関心かも。 ◎この“入力品”を見せずに感じさせる表現のひとつに俳諧がある。 ◎この“入力品”を消す技能をかなり周到に用意したのが小林一茶。 ◎第767夜『一茶俳句集』小林一茶。 ★『一茶はまずもって読書家で、勉強家だった。かなり若いころから老荘を読んでいたし、富永仲基や荻生徂徠などにも目を通していた。また、ニュースが好きなメモ魔の観察者だった。業俳とはそもそもそうした情報をネットワークする職能をもっていたのだが、とりわけ江戸での一茶は克明に世事を観察した。』(第767夜) ◎一茶の「情報俳諧」というもの。 俳句でやる「スペクテイター」か。 一茶の俳諧は「生活の延長なのか、それとも生活からの逃亡なのか」 (「店の問題と背徳の革命」『分母の消息(二)』デジタオ) ◎これを目指すべきなのだ。 できなくても目指すべきなのだ。 ★『いま、存在の足は国に行かずに街にいき、街に行かずに店に行く。では、存在の熱は、国になくて街にあり、街になくて店にあるのか。』(『遊』1003・「店々抄」) 『…で、結局重要なのはレセプションなんですね。レセプションがないと発信がない。入力がないと出力がないわけで。問題は入力をどこで、ああいう風な状態なのかを知ることですね。本も読めば入力できる人は本読めばいい。でもその本を読んでいる状態が違うんであるときに、そのポイントを考えればいい。もっと前か横か後ろか。そうじゃなくなりつつある、それはなにか。自分は食べ物でイキイキしたい、人と出会ってイキイキしたいというんだったら、その入力状態をもっとチェックしなくちゃいけない。どういう時に自分はその人と出会ったときにイキイキできたとか。』 (『スペクタクルin岡山』松岡正剛×能勢伊勢雄) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年12月19日 14時50分07秒
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