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◆しかし、何が入力になって、何が出力されるかわからんものだ。
ハク(編工研の研究猫)のシッポは夜の付箋なり。 http://www.isis.ne.jp/cdn/index.html ◆今日、郵便局の配達員から小包を受け取っているとき、 その配達員のメガネのふちがギラッと光っているのをボーッと見ながらフトおもった。 結局こないだの「埠頭ワークショップ」は何だったのだろー。 それで、受け取った小包の上でシャチハタを押しながら、 結局、自立していると思い込みすぎている風景というものを「注意の様式」として捉えなおしてみたかったのだ。 というようなことをおもった。 ◆その次に『分母の消息(二)』(デジタオブックレット)に映像のハナシがあるのをおもいだした。さっそくひいてみる。 ◎60年代のアングラシネマの伝説、ジャック・スミスとのエピソードを巡って。 われわれは映像を前にして、じつは「フィルムに入る」のではなく、あくまで自分との関係のなかで「フィルムから出てくる」のではないかということ。「注意の様式」との関連指摘。 ◎映像的なるものには、分母と分子といえるようなものがあり、このあいだにはぎりぎりの消息があるということ。 このような境界は映像の作り手が、その作為によって自画像に近づけば近づくほど溶解する。 ◎「そこに思いを向ける」という一事はわれわれの「場面特定能力」に密接にかかわっているということ。そして松岡さんの場面喚起を観察する実験。何かを思おうとするときに起きる場面連鎖の一部始終を記録する。そこには「手続き」の法則がある。 ◎名所という「場面特定能力」について。 そこに「界」ができて「外」ができる。 「外」からやってくるモノが異常というモノ、または死。 これを実際の場面に特定したのが名所。 (『分母の消息(二)』ー場面主義・“映像からの脱出と注意の様式”) ◆で、浮かんだのは、前回の「埠頭ワークショップ」の反省点。 ここでいう「フィルムから出てくる」風景に意識を向け、その「手続き」をまったく注視できなかった。 風景が映像体験になっていなかった。 もっと“自分の気分”に干渉しなくてはならないのだ。 ここで理科系なアプローチも必要か。 ◆考えてみれば千夜千冊の対象への向かい方はつねに「フィルムから出てくる」という発想だ。 自然、取り上げられた本はその本との出合いの経緯から語られ、私的な描写からすべてがはじまる。 ◆本だけでない。映画もまたしかり。 第142夜の『フェリーニ・オン・フェリーニ』コスタンツォ・コスタンティーニ編。 『13歳か14歳のときに見た『道』でぐしょぐしょに泣いたのがよかったのか、その後のどんなフェリーニにもそれなりに感動してきた。それも並大抵ではなく。次の『カビリアの夜』も大泣きに泣いた。しかし、これらはフェリーニを意識してのことではない。決定的だったのはマルチェロ・マストロヤンニとアニタ・エクバーグとアヌーク・エーメの『甘い生活』を高校2年の冬に見たことである』 ◆自分の状態も映画の内容なのだ。 で、ぼくのフェリーニの「道」という映像体験。 上京して美術学校に通いはじめた頃で、ようやくできた友人数人(男子2人、女子2人)で小金井公民館の小ホールで上映されたのを観にいった。しかし上映直前に行ったのが失敗で、満席御礼状態。立ち見すらできずホールの重い扉を半開きにしてちょっとだけ“パンザノ”が鋼鉄の鎖を胸筋で引きちぎるシーンを観た。 で、それからしばらく縁がなくて、編集学校の“物語編集”の課題のとき、何度も通ったビデオ屋でついでに「道」を借りてきたのが再会。ナゼか小津安二郎の「東京物語」と二本立てで。 ◆んー、「道」と「東京物語」。 この一見なんの関係のない二本の名画の共通項とはなにか。 この共通項をできるだけたくさん挙げよ。 ・二本とも1950年代前半に製作された。 ・二本とも白黒映画。 ・二本とも『情報の歴史』(NTT出版)のトラック・タイトルに“ポップアート”とある。 ・二本ともラストシーンに海が見える。 ・二本とも都会(ローマ・東京)でおいてきぼりになった何かがある。 んん・・・。あとは? ◆また岡山の『遊会』でのハナシ。 このなかで松岡さんは「思い出す」という行為について語る。 『まさにね、その思い、思い出す、思い起こすということは、アリストテレスが最初に言った通り、それから臨済録やね、空海が非常に重視した方法だと思うんですよ。すべてを思い出す。例えば僕や能勢さんの話を皆さんは聞いていて、それはとても大事なことですけども、問題はそれを思い出すときなんです。ぼくはね、これはシュタイナーに最初は習ったんですが、一日が終わるときにその一日を思い出すわけですね。では皆さんが大事なのは、今日、この日をどこで思い出すかなんです。アリストテレスはそれを学習だといい、空海は思想だといい、臨済録はそれを禅だといった。その思い出し方が悪いことを「残念」という。念が残るから。で、皆さんはここで聞いているんだけども、放っておくから残念、念が取り出せない状態にだんだんなる。そのために瞑想とかやるわけですね。その思い起こす、思い出すことはすごく大事で、今の能勢さんの話からいうと、ずっと過去へ過去へとさかのぼる。でも自分はここにいて、能勢さんはせいぜい1930年代に生存を受けて、ま、50~60年代になるわけだけども、じゃあ、その過去を思い出すということは何かとなるのだけども、じつは取り出せるんだよね。霊魂として思い出しているだけではなくて。例えばアウグスティヌスを読むとか、東京裁判の映像を見るとか、絵巻を見るってことでもつながるわけなんです。つまり、思い起こす、思い出すということは個人の記憶に関係なく、じつはつながりがあるんだということになるんですね。』 ◆最後の“思い出すということは個人の記憶に関係なく”というところにブルッブルッときた。 より自画像に近づいたほうが個人を越えてつながれる。 次回の「埠頭」はもっと自画像に!! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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