【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

フリーページ

2004年12月24日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
◆しかし、何が入力になって、何が出力されるかわからんものだ。
ハク(編工研の研究猫)のシッポは夜の付箋なり。
http://www.isis.ne.jp/cdn/index.html

◆今日、郵便局の配達員から小包を受け取っているとき、
その配達員のメガネのふちがギラッと光っているのをボーッと見ながらフトおもった。
結局こないだの「埠頭ワークショップ」は何だったのだろー。
それで、受け取った小包の上でシャチハタを押しながら、
結局、自立していると思い込みすぎている風景というものを「注意の様式」として捉えなおしてみたかったのだ。
というようなことをおもった。

◆その次に『分母の消息(二)』(デジタオブックレット)に映像のハナシがあるのをおもいだした。さっそくひいてみる。

◎60年代のアングラシネマの伝説、ジャック・スミスとのエピソードを巡って。
われわれは映像を前にして、じつは「フィルムに入る」のではなく、あくまで自分との関係のなかで「フィルムから出てくる」のではないかということ。「注意の様式」との関連指摘。

◎映像的なるものには、分母と分子といえるようなものがあり、このあいだにはぎりぎりの消息があるということ。
このような境界は映像の作り手が、その作為によって自画像に近づけば近づくほど溶解する。

◎「そこに思いを向ける」という一事はわれわれの「場面特定能力」に密接にかかわっているということ。そして松岡さんの場面喚起を観察する実験。何かを思おうとするときに起きる場面連鎖の一部始終を記録する。そこには「手続き」の法則がある。

◎名所という「場面特定能力」について。
そこに「界」ができて「外」ができる。
「外」からやってくるモノが異常というモノ、または死。
これを実際の場面に特定したのが名所。

(『分母の消息(二)』ー場面主義・“映像からの脱出と注意の様式”)

◆で、浮かんだのは、前回の「埠頭ワークショップ」の反省点。
ここでいう「フィルムから出てくる」風景に意識を向け、その「手続き」をまったく注視できなかった。
風景が映像体験になっていなかった。
もっと“自分の気分”に干渉しなくてはならないのだ。
ここで理科系なアプローチも必要か。

◆考えてみれば千夜千冊の対象への向かい方はつねに「フィルムから出てくる」という発想だ。
自然、取り上げられた本はその本との出合いの経緯から語られ、私的な描写からすべてがはじまる。

◆本だけでない。映画もまたしかり。
第142夜の『フェリーニ・オン・フェリーニ』コスタンツォ・コスタンティーニ編。
『13歳か14歳のときに見た『道』でぐしょぐしょに泣いたのがよかったのか、その後のどんなフェリーニにもそれなりに感動してきた。それも並大抵ではなく。次の『カビリアの夜』も大泣きに泣いた。しかし、これらはフェリーニを意識してのことではない。決定的だったのはマルチェロ・マストロヤンニとアニタ・エクバーグとアヌーク・エーメの『甘い生活』を高校2年の冬に見たことである』

◆自分の状態も映画の内容なのだ。
で、ぼくのフェリーニの「道」という映像体験。
上京して美術学校に通いはじめた頃で、ようやくできた友人数人(男子2人、女子2人)で小金井公民館の小ホールで上映されたのを観にいった。しかし上映直前に行ったのが失敗で、満席御礼状態。立ち見すらできずホールの重い扉を半開きにしてちょっとだけ“パンザノ”が鋼鉄の鎖を胸筋で引きちぎるシーンを観た。
で、それからしばらく縁がなくて、編集学校の“物語編集”の課題のとき、何度も通ったビデオ屋でついでに「道」を借りてきたのが再会。ナゼか小津安二郎の「東京物語」と二本立てで。

◆んー、「道」と「東京物語」。
この一見なんの関係のない二本の名画の共通項とはなにか。
この共通項をできるだけたくさん挙げよ。

・二本とも1950年代前半に製作された。
・二本とも白黒映画。
・二本とも『情報の歴史』(NTT出版)のトラック・タイトルに“ポップアート”とある。
・二本ともラストシーンに海が見える。
・二本とも都会(ローマ・東京)でおいてきぼりになった何かがある。

んん・・・。あとは?

◆また岡山の『遊会』でのハナシ。
このなかで松岡さんは「思い出す」という行為について語る。

『まさにね、その思い、思い出す、思い起こすということは、アリストテレスが最初に言った通り、それから臨済録やね、空海が非常に重視した方法だと思うんですよ。すべてを思い出す。例えば僕や能勢さんの話を皆さんは聞いていて、それはとても大事なことですけども、問題はそれを思い出すときなんです。ぼくはね、これはシュタイナーに最初は習ったんですが、一日が終わるときにその一日を思い出すわけですね。では皆さんが大事なのは、今日、この日をどこで思い出すかなんです。アリストテレスはそれを学習だといい、空海は思想だといい、臨済録はそれを禅だといった。その思い出し方が悪いことを「残念」という。念が残るから。で、皆さんはここで聞いているんだけども、放っておくから残念、念が取り出せない状態にだんだんなる。そのために瞑想とかやるわけですね。その思い起こす、思い出すことはすごく大事で、今の能勢さんの話からいうと、ずっと過去へ過去へとさかのぼる。でも自分はここにいて、能勢さんはせいぜい1930年代に生存を受けて、ま、50~60年代になるわけだけども、じゃあ、その過去を思い出すということは何かとなるのだけども、じつは取り出せるんだよね。霊魂として思い出しているだけではなくて。例えばアウグスティヌスを読むとか、東京裁判の映像を見るとか、絵巻を見るってことでもつながるわけなんです。つまり、思い起こす、思い出すということは個人の記憶に関係なく、じつはつながりがあるんだということになるんですね。』

◆最後の“思い出すということは個人の記憶に関係なく”というところにブルッブルッときた。

より自画像に近づいたほうが個人を越えてつながれる。

次回の「埠頭」はもっと自画像に!!












お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2004年12月24日 23時46分36秒
コメント(1) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

油銭

油銭

お気に入りブログ

まだ登録されていません

コメント新着

 王様@ 潮 吹 きジェットw サチにバ イ ブ突っ込んだ状態でジェット…
 ボーボー侍@ 脇コキって言うねんな(爆笑) 前に言うてた奥さんな、オレのズボン脱が…
 リナ@ 今日は苺ぱんちゅ http://kuri.backblack.net/9x14fz8/ 今…
 通な俺@ 愛 液ごちそうたまでしたw http://hiru.kamerock.net/b5nmfyi/ フ○…
 しおん@ ヤホヤホぉ★ こっちゎ今2人なんだけどぉ アッチの話…

© Rakuten Group, Inc.