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フェリーニの『道』とは
どんなハナシだったか思いだしてみる。 ◎パンザノという男に買われていく少女(名前が思い出せない)。 まんざらでもない。 生来芸事が好き。 ◎パンザノは少女にとって“男”“父”“ケダモノ”がない交ぜになったような複雑な存在。 複雑ながらも愛着わく。 ◎旅先、ローマにて品はないがスマートな軽業師に会う。 これはあらたな男性像か。 ◎軽業師とパンザノ折り合い悪し。 少女ここではじめてパンザノを客観視。 また軽業師のおかげで自分の感情を自覚。 ◎パンザノふとした拍子に軽業師を殺してしまう。 それを見た少女は気が狂う。 ◎パンザノ、狂った少女を捨ててひとり旅に。 サーカス団に混じってのあいかわらずの芸。 ◎パンザノ、旅先で少女の好きな歌を歌いながら洗濯物を乾す女を見かける。 女に聞くと少女が昔そこにやってきて歌を歌ったのち寂しく死んだという。 ◎パンザノショックを受け、バーで飲んだくれる孤独な日々。 ◎海にたどり着く。 砂浜で倒れ伏し、砂を掴んでやりきれないパンザノ。 FIN ◆シーンとしては少女が路上にちょごんでいると、不思議な黒装束の男3人組がなにやら楽器を吹き鳴らしてやってくるところが鮮明にある。 その3人組の男の後についていくとそこはローマ。 肉屋にぶら下がる豚の丸焼き。十字架を担いだ賑やかなパレード。舞い散る花吹雪。殺到する群衆。見るものすべてが刺激的。これが少女の都会だ。 ◆ところで昨日、用事あって車で東京に行った。 朝早く名古屋を出て、夜遅く帰ってきた。 帰りの中央道、途中、談合坂で晩ゴハンを食べた。 これはハッキリ憶えているのだが、それ以前の時間、八王子インターにノッタ場面がゼンゼン思い出せない。気になってずっと考えていたら別の日の晩、やっぱり中央道にノッテ帰ってきた日のこととゴッチャになっていた。 これは第606夜『なぜ「あれ」が思い出せなくなるのか』ダニエル・L・シャクターにある「混乱」といわれる記憶エラーだろうか。いやたんなる「不注意」じゃ。 ★『記憶とはほとんどわれわれの感情なのである。場合によっては記憶とは精神である』 ★『もっと外に置いておくべきなのだ。編集とは内外で出入りするものなのである。たとえば書棚に、たとえば他人の心の中に、たとえば自然の景観に、たとえば茶室に』 ◆ぼくはひと一倍ものを忘れる性質である。 こんな欠点も編集においては武器になるかもしれない。 しかし、能勢さんの『遊図』は無理してでも見ておくべきだったか。 『僕もね、このようなコンセプトテーブルや「遊図」のように、いろんなものをスケッチ、ドローイングすることをいまだにするんですよ。こういうやり方をするといいよ、というのを紹介しますと、ひとつは知りたいことをいろいろ調べたら、マッピングする。置いておく。置く場所がわからないから、とりあえず置いておく。バラバラに置いて、だんだんグルーピングする。今はパソコンなら自由に動かせるのでいいけども、ノート上とか模造紙のように位置の変わらないものがある。それをだんだんやっていくと、さきほどの「自分の死んだ父」ということを、5分なら5分、15分なら15分、注意して思い浮かべる。想起する、ということですが、想起したまま順番に書いていくわけです。例えば、死んだ父だなとか、明日能勢さんの岡山に行くなとか…。1時間じゃきついと思うから、10分ぐらいのなかで、人間はこんなにたくさんの多様性の旅をしているんだということが見えてくるし、このなかにモデルが出来ているんですね。すると能勢さんが左に何を置きたいとか、四角で何を囲いたいとか、矢印で何をつなげないとか、そういうマッピングやドローイングをしていると出てくるんですよ。』 (スペクタクル対談:松岡正剛×能勢伊勢雄) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年12月29日 00時27分30秒
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