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『近世的なものとは、人工するエネルギー、極端な文化的爛熟であるとともに、自然状態への激しい憧憬であった。新たな創造への衝動であるとともに、過去への熱い視線であった。「外部」=「異質なるもの」との出会いであると同時に、すべてのものが「相対的」であることの発見であった。』(『江戸の想像力』田中優子)
◆この“近世的なもの”はやがて“キャンプなもの”になっていく。 ということで第695夜『反解釈』スーザン・ソンタグ。 ◆読んでると江戸の才女の姿が格子越しにチラリ、チラリ。 ゴダールの『女と男のいる舗道』は『春雨物語』の“列挙が可能にするもの”にダブるし。 「キャンプの通人はたえずおもしろがったり喜んだりする」は、俳諧化は「笑うことによって動き続ける」とかダブって見える。 ◆それはきっとこういうこと。 『キャンプとはようするにぼくがおもしろがってきた、あの「数寄」なのだ。』(695夜) ◆『ほとんどどんな場合でもわれわれの外観はわれわれの存在の仕方であると言っていい。 つまり仮面は顔なのだ。』(『反解釈』) これはぼくにとっては版画論。 “ほとんどどんな場合でも刷り上がった状態はその版画の存在の仕方であると言っていい。つまり板が版画なのだ。” そして板は彫刻刀や馬簾の痕跡。 彫刻刀や馬簾の痕跡は画室の生理。 画室の生理は連の結果。 ◆版画というものは、単純に刷られた和紙であると同時に、これら一連の<様式>であるべきではなかろか。 ◆カンディンスキーの「即興19」(ちくまのカバー)にはカンペキ劣りますが、 こんな版画を繰り返し創っていこうとおもいます。 “内容”という病理から脱出するために。 『内容ではなく、多様さと繰り返しの原理、そしてそのふたつの均衡を理解しないかぎり、これらの作品は必ず退屈であるか、醜悪であるか、人さわがせであるか、あるいは同時にこれらすべてのものとなるであろう。』 (『反解釈』) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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