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『わかるかな、これは自然界の足元に出ている女の爪先みたいなものでもあるんやな。そやけど、その爪先にも親指から小指までの違いはあるし、小さな爪も大きな爪もある。それを仮に物質やと仮定してみると、その物質はそれぞれ泊まりたい場とか場所というもんがあって、そこにはいろんな席が空いているということやね。だから、物質はそこへ行くと、その席に座る。そうやって自然の足の指はできている。』(828夜)
◆“科学の耽美主義”。 ここを読んで、今夜は暗いところでオボロゲなものを写しとってみたくなった。 それで筆ペンとクロッキー帳を持って暗い床の間のある部屋へ。 その床の間にはちょうど弘法大師の置物と大きな丸い置時計がある。 なんだか湯川秀樹っぽいぞ。 燭台のロウソクに火をつけ床の間の前に胡坐をかいて、いざ。 その唯一の明かりをたよりに筆ペンがケント紙のうえを走る。 蝋燭の灯をうけてキラリと光る一輪指しのヘリ。 “女の爪先”だ。 ◆対象を照らすのは蝋燭の灯だけだからよく見えない。 描いている自分の絵もよく見えない。 4・5枚描いているとだんだん目が慣れてきて手元の絵がハッきり見えてくる。 同時に対象もはっきり見えてくる。 世界はうつろっている。 ◆最近は見えるものを“観測”するように描いてみたい。 そして仕上がったものには“意味”よりも、“観測のルール”のようなものが見えてきてほしい。 『見ていることと、していることは違いますというもんやねえ。それはその通りです。けれども、その違いがわかったところで、どうにもならへん。大事なことは、では、何をもって何とみなすかということなんです。このとき、「何をもって」というところにもイメージがいる。「何とみなすか」というところにもイメージがいる。この二つのイメージを最初から連続したものと見てきたのが、これまでの科学というもんやったわけやね。そやけど、この二つのイメージは別々のものでもかまへんのです。その異なるイメージをつなげ、そもそもの何を何とみなすかという「同定」をおこすことが、本当の理論物理学なんです。』(828夜) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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