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■★『マラルメを読むのはマラルメになることだ』
と第966夜の最後に書かれているので、ぼくもさっそくツケ髭をして鏡の前に。 そして自画像を描いてみる。 髪金(パツキン)の ツケ髭をした自画像は 鏡で反転 版画で反転 ■「情報の歴史」(NTT出版)によるとマラルメのトラックタイトル は『自然主義と新聞』。1880年にはいると『言葉・通信・流行』。 気になったのはそのとなりにあった“マネとマラルメ交流深まる”という一行。 そしてマネはその後、マラルメが仏訳したポーの「大鴉」の挿絵を描いている。 ■それにしても、ぼくは高踏派から象徴主義へという流れをまったく知らない。 うーむ、おぼつかない暗中のロウソク一本。 ■版画というのは紙の裏側がキレイだったりする。 裏刷りという技法があるくらいで。 ■よくあることだが、画面上で絵の完成度を気にしだすと、時間だけが過ぎていってしまう。 これはマラルメらしくなくおもえる。 方法がしっかりしてればその完成度は一気なはず。 見たいのは方法のギャラリー。 聞きたいのはスタイルの産声。 ★『詩が方法なのではなく、方法が詩であったのだ。その方法がどこにあったかといえば、紙に付いていた』 ■あらゆる情報が電子化され、書物さえも電子化されるいま マラルメを読む意味とは何か。 ★『著述したい書物があるのではない。書物という絶対的なものだけが空中放散してほしいだけ。マラルメの決意が書物だったのだ』 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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