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渡辺崋山の『四州真景図巻 巻二・三』が見れたのは
先日の「自然をめぐる千年の旅」(愛知県美術館)での収穫のひとつ。 崋山は余白タップリ、絵の具カスカス、筆が擦れていく音が聞こえてきそうな絵だ。節約型か。 比べて、そのあとに展示してあった椿椿山の『山海奇賞図巻 中巻』。 こちらは絵の具たっぷり、画面ぎっしりのフルサービスか。 ぼくは断然カスカス崋山の方が好き。 そこでおもいだしたのは崋山が椿山に宛てた書簡。 「山水思想」(五月書房)で読んだ一行。 『画の韻といふも所謂ひびきなり。文の徳というもひびきなり。ひびくところより人の感ずることあるべきか』 画文の相互共振。 テーマだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 第1032夜は『古楽とは何か』ニコラウス・アーノンクールでした。 読み出してすぐ、かつての音楽は言葉と一体だったという内容にハッとした。 ちょうど読んでいる最中の『八犬伝の世界~伝記ロマンの復権~』高田衛(中公新書)に感じた絵と言葉の関係にそっくりそのままあてはまるように思えたからだ。 ★『かくしてルネサンス音楽はその頂点に立つ。宇宙観と身体観と器楽観もそれぞれの根拠律において連動し、調和し、総合されていた。ただし、それを結びつけるのは修辞学としての言語であったのだ。』 「修辞学としての言語」。 八犬伝の挿絵もこれによってコンポジションされているとおもえてしょうがない。 “言語挿画”。 そんなことを考えながら、取り急ぎ 泉鏡花のほとんどを挿画化した小村雪岱 をまねて彫ってみた。 社があるのは川向こう 万緑叢中女一点 映しているのか、裏腹なのか 女のおもいが萌ゆる色 部屋は不在で有俤で 瓦の並びに時刻む 小村雪岱こそ「画の韻」と「文の徳」がひびきあっている。 瓦一枚落ちてもそれが乱れる。 静止風景なのにシャッターチャンス。 !なものがなにひとつないのに!な事態。 この人の弟子になろう。 ●しかしこれも画文相互共振なり。 「もっとこっちへよりや」 「ぬしはネギをくひなんしたか。いつそ口がくさい」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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