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千夜千冊を読んでると長らくひっかかっていたことがストンと腑に落ちることがよくある。
今夜はそんな夜。 ぼくは学生の頃から、まるで映画のフィルムを絶妙なタイミングでポーズしたような写真を撮る、ヘンリ・カルチエ・ブレッソンが大好きでした。 いつもブレッソンの写真を見ながら、写真家にとって、モチーフに出会うための「運」とか「偶然」とはいったい何だろうと感じておりました。 これはブレッソンのような巨匠だけにでなく、巷の本屋で見かける動物などの写真集を見ていても感じられることでした。 ちょうど当時大評判だった藤原新也の『東京漂流』を読みました。 その中にある「アメリカ淵紅葉散歩・バスガール情痴殺人死体遺棄現場」の写真はかなりショックでした。 1981年11月11日秋川渓谷で情痴殺人の果て遺棄されたバスガールの現場写真。 たった一人の一地方記者だけが、たった数枚のネガに収めることができた、「ヤツは運がよかった」と云われたあの写真。 ここで藤原新也が感じたものは 第1042夜『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー。 ◆『写真を撮る、という行いにはしばしばじつに不思議なことが起こる。運とか偶然とかいう、まことに頼りなげな現象が、実は、ある種の必然のよって導かれたものであったというケースがよくあるのだ。』 『しかし私には、その運とか偶然を導くものがいったいが何であるかはっきりわかっているわけではない。ただ、漠然とした単純な感想になるが、それを導くいくつかの必然的な要素の中に必ず、“集中力”そして“エネルギー”が見出されるとだけは言える。』 (東京漂流・「アメリカ淵紅葉散歩・バスガール情痴殺人死体遺棄現場」) なぜ一地方記者にあの死体が発見できたのか。 その“発見”のプロセスが知りたい。 その「知ること」と「在ること」のつながりが知りたい。 ★『「知ること」(知識)と「在ること」(存在)のあいだには共通して「見えない連携」のようなものがはたらいていることに気がついた。最初にヒントを与えたのはレヴィ・ブリュールの研究である。レヴィ・ブリュールは未開部族の原始的精神機能を先行的に研究していて、そこに個人の感情ないしは動機が外界の出来事としばしば同一視されていることを指摘していた。レヴィ・ブリュールはこれをとりあえず「参加」(participation)と呼んだ。』 (第1042夜) ◆『彼はこのまれに見る秋川事件の一瞬に、十全に立ち会いたい、と思っていたのであった。「何が何でも事件の一部始終を全部、現場の草であるとか岩の盛り上がり方であるとか、そんなものを一切合切見届けてやろう、と思いましてね…』 (東京漂流・「アメリカ淵紅葉散歩・バスガール情痴殺人死体遺棄現場」) ぼくが一地方作家としておもうのはこれを“方法”として取り出したいということ。 ★『あらかじめ未知の対象がそこに設定されていなかったからといって、その設定のために使われた方法によって、設定されていなかった新たな知を生み出すということがありうるということなのである。』 (第1042夜) この『イメージの発生現場のための研究』は“絵を描く現場のための研究”でもあり“イベントづくり の現場のための研究”でもある。 あの有名なブレッソンの写真。 水溜りの上を走り抜ける紳士の踵が水面にギリギリ触れないタイミングでおさめられたあの写真。 その光景が“発見”できるプログラムをブレッソンも用意していたのではなかろか。 なんだか勝手にストンと腑に落ちた。 ※まずは眞千代組長の『千年の悦楽 一夜の彷徨』 を見るべし! ここに“編集知の次元”がある。 http://saturniens.air-nifty.com/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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