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第1044夜『鉱物学』森本信男・砂川一郎・都築秋穂を読んでおりました。
ぼくは鉱物ファンではないけれど、稲垣足穂の『鉱物はじっとしているところがエロティックなんやけど、地味やさかいなあ』 はわかる気がする。鉱物を「メタ絵画」として見た共感か。 ヨーロッパには「鉱山幻想」や「グロッタ(洞窟感覚)」というものがあり、それがブルトンの『石の言語』やカイヨワの『石が書く』に繋がっているというのを読んでフト、高校の頃大好きだったフランスのアンフォルメルの画家ジャン・デュビュッフェ(1901~1985)のことをおもいだした。 あの“厚塗り”と“引っ掻き”のデュビュッフェ。 “少年少女期の鉱物ファン的感覚”ではないけれども、あれはぼくの“地質”への好奇心だったのかもしれない。ただ、デュビュッフェの場合はピュアな鉱物ではなくアッサンブラージュ(寄せ集め)な岩石だ。 山口昌男が「エントロピー芸術」とどこかに書いていた。 それでデュビュッフェの画集をひさびさに取り出してきてパラパラ。 デュビュッフェといえば41歳になってデビューした遅咲きの作家。 もともと絵画に熱中した少年だったけれど、つねにその“入り口”に悩み続けた作家だ。 『中学校を終えた後、私は6年か7年のあいだ絵画の勉強をした。それと同時に、ほかの多くのこと、つまり、詩、文学、アヴァン・ギャルト、アリエール・ギャルト、形而上学、土俗学、外国語、古代語などを学んだ。お察しのとおり、私は“入り口”を求めていたのだ。でもそれはうまくいかなかった。私は自分が人間の条件に適応していないような印象をもっていた。空回りして、ギアが入らなかった。何年もの間のこのような中途半端な勉強のあとで、知識の集積とシステムの獲得に努めた後で、これらすべてが実は大して役に立たないのではないかという不安を感じるようになった』 デュビュッフェはやくして落胆した。 それで庶民の生活のなかにこそ芸術と詩があるのではないかと、市井に暮らすことを決心をするのだが、これもやっぱりうまくいかなかった。 (その間兵役などもあり)ブエノスアイレスに行き商売をやってみたり、父の事業を継いでみたり、酒屋を起こしてみたりしたが、これらすべてが失敗だった。 また“入り口”で悩んだ。 これではイカンと、ふるい立って友人の顔を仮面で創ったりして、人形芝居を上演したりするのだけれど、これもやっぱりパッとしない。 ひとり民藝運動は庶民に理解されなかったのだ。パリに柳宗悦はいなかった。 その後いろいろあってパリ画壇に鮮烈なデビューをするのだが、ぼくはこの“入り口”に悩んだというデュビュッフェがとても気になっている。 この“入り口さがし”、つまりは“方法さがし”だったのではなかろか。 “いろいろ学んだけれどもオレは現代思想なんかでは救われないのだ。フーコーや三島なんかではとても追いつかないのだ(まだいないのに)。むしろこれらすべての“入り口”である「方法」がオレには重要だ。そうだ、いっそメディアになってしまいたい。そもそもオレの商売人へのロマンチックな期待もこんなところにあったのだ。ああ、ランボーならきっとわかってくれるだろ” とデュビュッフェが言ったかどうかはわからない。 61歳になってデュビュッフェは「ウルループ」という造形言語を発明する。 まるで“人工の鉱物”を組み合わせたようなこの作品群。 最後にデュビュッフェはポリスチレンやポリエステルで地質学をやりたかったのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年06月19日 14時37分28秒
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