|
カテゴリ:カテゴリ未分類
第292夜『夢二のアメリカ』袖井林二郎。
夢二はリトルトーキョーで「さみしい、さみしい」と云っていた。 夢二は太平洋戦争前夜「利休や遠州のような者がこの時期のアメリカに来ればよかったのだ」と云っていた。 夢二はナチス台頭のなかベルリンで「日本画についての概念」という講演をしていた。 この夢二とはいったいなんだったのか。 『青山河』 この一枚の枕屏風にすべてが凝縮されている。 ここに昭和初期という時代の空気が密封されている。 ところで 夢二はグラフィックデザイナーとしてもハイセンスだった。 ぼくが大好きなのは大正後期から昭和初期にかけてのブックワークで、とくに表紙絵や見返し絵の仕事。 大正5年から昭和2年まで、およそ11年間続いた「セノオ楽譜」の表紙デザインにはとてもインスパイアされる。 これは音楽の映像化編集稽古か。 もともと 夢二は詩人になりたかった。 だからそのぶん本に対する思い入れは他の画家よりひときわ強かった。ハズ。 こんな<装丁観>がある。 『装丁が気になる第一は、材料の色と文様が生で、私の着物や持ち物と調和がとれない。(中略)第二に、その効果として、あんまり装丁がは晴れがましきこと。(中略)愛読の書は、自分の好みに従って自分で装丁するなり、製本屋に注文して自分の好みで作らせるはずのものだ。』 (『装丁についての私の意見』竹久夢二) 画家に 装丁を作らせるとやたらと絵を描きたがってよくないと云っていたのは谷崎潤一郎だ。 夢二はそこのところをよくわかっていた。 『装丁と云ふものは、なるべく余計な線や色彩を施さず、クロースなり布なり紙なりの持つそれ自身の地質と色合とを取り合わせて、内容にぴったりするような一つの調和を作り出すのが理想ではあるまいか。』(『装丁漫談』谷崎潤一郎) いっそ 夢二は晩年、芸術家なんかやめて職人になればよかったのにとおもったりする。 したら案外、超モダンな表具師か、はたまた未来派な塗り物師か、アールデコな蒔絵師あたりになっていたかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|