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とても近所で開催されているにもかかわらず
万博というものにどうも行く気がしない。 入場のための手続きはインターネットなどで簡単にでき そこそこに楽しめるイベントなはずなのにどうも行く気がしない。 そのくせ、かなりややこしいハナシを聞かされる講演やシンポジウム、 いちいちその感想文を書かされるような面倒なイベントには暇も金も惜しまず喜んで出かけていく。 これはどういうことか。 第427夜『民藝四十年』柳宗悦 『相愛の社会が崩れる時、美もまたくずれてくる。醜い工藝は醜い社会の反映である。』(『工藝の美』) ★工藝というもの、癒しやノスタルジーの対象なのではなく、社会が産んだ切実な作物なのだ。 『もし美の問題を過去の歴史に止めるなら、それはただの愛玩的な鑑賞に止まってしまう。私たちにとって重要なのは、むしろ新作品への準備である。』(『日本民藝館案内』) ★蒐集や鑑賞は“日本の方法”を摘出するための二次的な仕事なのだ。 『「寂び」とはただ淋しみという事ではなく、仏法の言葉であって、本来はあらゆる執着を去るように云うのである。私を棄て欲を去り二元を越えた究境の境地を「涅槃寂静」と呼び、これに帰ることが悲願となった。』(『日本の眼』) ★造り手はこれを肝に銘じなくてはならぬ。 造作に落ちてはならないのだ。無事であらねばならないのだ。 今回読んで気になった言葉は「忠順」、「帰依」、「奉仕」、「主従」、「働く」など。 なにやらマジメ腐った言葉ばかりだ。 この言葉の奥に“主客の一線”のようなものを感じて気になった。 日本の家に例えて云うと敷居やしきみみたいなものだ。 『「茶」の方では美の理念として「粗相」を説き、「閑味」を云々する。「粗」は粗で、荒々しい相である。ある意味で味も艶もないその箇所に、あふれる味わいをみつめた。ここに日本の眼の鋭さがあり、深さがあろう。』 (『日本の眼』) ★この「美の理念」はきっと茶室空間から日本というスケールへそのまま広がる。 朝鮮半島は日本という茶室に突き刺さった巨大な床の間。 琉球諸島はその日本という茶室へ続く露地を伝う飛石なのだ。 柳の仕事はある意味“もてなし”の極意だったのか。 柳は民藝運動という仕事を通して、西欧という客に対し亭主をしていたのか。 「自然の叡智」や「ココロツタエ」を提唱するこの愛知万博。 柳の眼にはどう映るだろか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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