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先週、松岡さんの主宰するある倶楽部で城之崎温泉に行った。
そこでぼくは湯上りでいくらのぼせていたとはいえ、またしても馬鹿な質問を松岡さんにしてしまった。 日中、玄武洞や鉱物ミュージアムを巡り、めくるめく鉱物世界に魅了されたあとの外湯帰りの道すがら。 油銭:「玄武洞にはほんと感激しました。あの自然の造形を前に、アーティスト は何を創る必要があるのでしょうか」 松岡さん:「それは、それ!」 第320夜『美の本体』岸田劉生 『美の本体』の中に「自然の美と美術の美」という美術論がある。 勝手に解釈すると 人工が自然に到底及ばないなどと悲観してはいけない。 自然の物質に美を発見するのは人間の心の目なのだから、 これもいってみればすでに人工。 だいたい人に認知された瞬間すべては人工。 つまり何かに編集されている。 人工の美をつくろうとする画家はつねに自然の弟子。 その自然の美を抽出しようとする表現は、し覆せないのが当然。 そのし覆せないことを惜しんではいけない。 それは別の精神の形になって無形の具体となってその底に籠っている。 その不足や未完成がいい。 そこには正解はないが、想起がある。 われわれに重要なのは自然という師匠の美に向かって裸になっていくことだけではない。 あらゆる道具を駆使して、その不足に遊ぶことも重要なのだ。 これも師匠へ近づく道なのだ。 『人工は自然と共に常に純眞だ、ともに光るべきである。』 (『美の本体』“自然の美と美術の美”岸田劉生) 『ここからまた旋回がある。ぼくはそこがすさまじいとおもっているのだが、劉生は初期浮世絵肉筆画や宋元の水墨山水画に没入していったのである。日本の昔話にも手を染め、童画も試みた。』(第320夜) ●これはまた気になる。 さっそく本棚から『初期肉筆浮世絵』岸田劉生をとりだして “シロ”と“クロ”は仲良し。 犬じゃないです。狼です。 毛がゴワゴワなのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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