安達千夏『おはなしの日』
安達さんの作品はこれで4作めになります。 題名は穏やかだけれど、やはり虐待を受けている子供のお話でした。でも、表題の「おはなしの日」と「草の名を」は脚の不自由さで差別することのない友人たちに囲まれた、心温まるジーンが多かったです。 安達さんもこんな風に優しい友達がたくさんいたのでしょうか。 巻頭の「遠くからくる光」は3つの中で一番あとに書かれた作品です。 中学3年生の私とタケシは幼いころから親からひどい虐待を受けて育ちます。種無し葡萄を作るための赤い液体やモズの巣に産みつけられたカッコウ、落とされたモズの卵。彼らはなにを見ても親とは何かを考え続けたにちがいありません。 真っ暗な田園地帯を突っ切る灯りのない夜道を、それきり黙りこくり見つめていた。タケシの言いたいことはよくわかり、そうだったらいいとも思い、けれども未熟で、幼くて、もの悲しかった。先はない。私達はしくじるかもしれない。でも目の前の夜道は、闇の先になにもないように見えても、前へ進めば進むだけ現れる。ヘッドライトに照らし出され続いている。私達が光なら、遠くを見通すことはできなくても足元を照らすことぐらいはどうにかなるだろう。 気の毒そうに目を逸らす近所のおばさんに泣きつき、無言で手当てする医師に理由を言い、忙しそうな教師を呼び止め、無邪気な友達が怪我の痕や塞いでいるわけを訊いたら笑ってごまかさず正直に、家の中でなにが起きているかを話せばよかったろうか。 助けてくれたかもしれない人達の顔を思い浮かべる。チャンスはあったのかもしれない。私が見逃してしまった。信じられなかった。もしもまた、あの夜間診療所の看護師さんに会えたなら、ううん、私はもう戻らない。 明日目覚めぬように願い続けた日々が嘘のように、夜明けを楽しみに、けだるさと振動に全身を委ねた。 今この時間にも親からの暴力を受け続けながら耐えている子どもがいる。安達さんは彼らにエールを送り続けているのでしょう。 いつかはきちんと書こうと思ってきた課題を安達さんはかくもみごとに描いてしまうのですね。読みながら何度も在りし日を思い出しました。 もっとも鮮明だったのは、高校のときに友達の家に遊びにいったときのことです。 友達とそのお母さんが微笑みながら料理を作っていました。友達がちょっと生意気なことを言って、お母さんが「この子ったらあ~」とお笑いしているところを偶然見ました。 そのとき、私は「母親というものはテレビドラマと同じように子どもに優しく笑顔でいるものなのだ」ということを初めて知ったのです。今の機嫌はどうなのかを伺うこともなく、姉が作ってくれた誕生日ケーキを勝手に客に出してしまったことへの抗議の見返りに包丁を持って追いかけられるなんてことは、彼女たちには無縁の世界なのだと知ったのでした。 母親の病気の原因は自分が男に生まれなかったことだと親戚や知人を見つけるたびに言われたり、価値のない子どもとして養育してやっていることだけでも感謝しろと言われたり、何より近所の子どものない家庭にもらわれるはずだったのを死んだ祖父が反対したのだと、さも残念そうに言ったり。そして、そんなときいつも反抗的な態度はとっていても、そもそも自分が生きていることが悪いのではないかと何度も考えました。正しいのは母親のほうであって、しぶとく復活する邪悪な適役こそが自分なのではないか、と。 あのころの自分に「あなたは悪くない」と言ってやりたいと何度思ったかしれません。 それでも何か失敗をしでかしたり、夫との関係がうまくいってなかったりすると、そのたびにあの頃に戻ってしまう自分がいます。トラウマとはそう簡単に消えるものではないのです。 まあ、こんなわけで、安達さんの作品はあっという間に自分を引きずりこんでしまうわけです。今度の読書感想文に息子にどうかと勧めてみましたが、果たして愛情たっぷりに育った(笑)人間にはどう映るのか、訊いてみたいものです。