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2009.05.09
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カテゴリ:石碑
越後・与板の丘陵には二つの城跡が有る。
本与板城と与板城(城山 じょうやま)、いづれも山城である
つい最近まで訪れる人も少なかったが大河ドラマを契機に二つの城跡への道が整備されている。

本与板城の最初の城主は、建武年間(1334年~南北朝)に新田義顕一族の籠沢入道(こもりざわにゅうどう)が最初とされている。その後、天文15(1546)年頃より、直江家三代(景綱、信綱、兼続)の居城となる。
与板城(城山)は、天正年間(1573~1592年)に築かれ直江兼続が居城とした。
また、直江兼続は城山城下の農工商業の発展に尽くし「与板」を城下町として繁栄の基礎を作った。
主君である上杉景勝を大大名にのし上げ、豊臣秀吉いわく「最も信頼にたる武将の中に兼続あり」と言わしめ、徳川家康も一目をおいていたほどである。

直江家は、親綱、景綱、信綱、兼続と続く。景綱には男子がいなかったので信綱を婿に迎えたが、「御館の乱」の巻き添えで死亡。未亡人である「お船の方」と「兼続」を婚姻させ、直江家を継承する。

近辺に住みながら、この城山に登るのは初めての事である。
当時の城主の名前や背景などについては知ったのは2年程前の事である。
「灯台もと暗し」の感がする。

急登の階段を上り、途中「お船清水」を見下ろし、さらに登ること10分で大杉に着く。
大杉から平坦な山の頂上部となり、現在は神社が建っている。
この大杉は「言い伝え」によれば、直江兼続が「会津移封」の際に植樹したとされている。
大杉の一部は樹皮が無くなっており、倒れないようにワイヤー3本で張ってある。

木々の間からは、信濃川や遠くの山々が望める。

戦乱の時代に生きた「直江山城守兼続」に思いを馳せる。

   撮影2009年05月08日14時30分  海音寺潮五郎 揮亳の碑
直江山城守兼続の碑





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Last updated  2016.08.01 16:18:55
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