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カテゴリ:良寛
国上寺(こくじょうじ)について、手元にある「良寛」関連の案内書によれば次のように記載されている。
<国上山(くがみやま)の中腹にある真言宗の寺院。和銅2年(709)創建の県内最古の名刹である。現在の伽藍は17世紀に客僧万元上人の尽力により再興されたもの。酒呑童子はこの寺の稚児であったという伝説もある。客殿には茂木弘次作の良寛座像があり、庫裡入口には「くかみてら 良寛書」の額がかけられている。> 良寛が修行の後、諸国行脚を経て故郷・越後に帰ったのは39歳。 寺泊・郷本海岸の「塩たき小屋」(空庵)に住むが、旧友の医師である原田鵲斎の口添えや勧めにより国上寺・五合庵に移り住む。この時、良寛は40歳。 その後、五合庵には45歳まで住む。国上寺の貫首である「義苗(ぎびょう)」が隠居し五合庵に住むことになったために、良寛は、ここを出て他に移ることになる。3年後に義苗が遷化したために再び五合庵に戻る。 その後、59歳まで住むことになる。 五合庵について、案内書には次のように記載されている。 <国上寺付属の草庵。元は国上寺住職の隠居所であったが国上寺中興の祖万元上人が、貞享末年(1687)頃ここに住み、毎日寺から五合の米を与えられていたのでこの名が付いた。楓・杉・ブナの大樹がそびえ、当時は竹林もあったらしい。良寛は47歳から59歳までの間、この山中の粗末な庵に無一物で暮らし自然と一体となって修行を積み精神の深みを増していった。庵の近くには良寛の歌碑2基がある。現存する建物は大正3年(1914)の再建。> 五合庵の暮らし向きは「清貧」そのものであり、書や漢詩、和歌の今日で言う「名作」を残す。 文化人としての名声が広く伝わり、長岡藩主の牧野忠精(ただきよ)は、長岡に寺を用意し住持に迎えたいと自ら五合庵を訪れたが、良寛はこれを拒否した、という逸話がある。 撮影 2009年11月27日15時16分 1/25 F6.3 ISO100 国上寺 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.01.16 19:03:25
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