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カテゴリ:文化遺産
「米百俵の群像」は、山本有三の戯曲「米百俵」を歌舞伎座で上演(昭和50年、1975年)した時の一場面を、ブロンズの像で再現したもの。
原型を制作したのは長岡市美術協会(米百俵群像制作委員)の6名で、群像は全部で12体あり、立像は高さ2メートル余り、重さは平均1トン。背景には刀をイメージした石柱が立てられている。 1868年(慶応4年)、維新戦争に敗れた長岡藩は禄高を減らされ、藩士は貧困の生活を強いられていた。 1870年(明治3年)春、長岡藩の窮状を見かねた三根山藩から「米百俵」が届く。 「早く米を分けろ」という声を無視し、「小林虎三郎」は次のように言ったとされる。 「この米を、一日か二日で食いつぶして何が残る。国がおこるのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て人物を養成するのだ」。 米百俵を売却し、学校(国漢学校)建設の資金に充てられた。 小林虎三郎は、佐久間象山の門下生で吉田松陰と並び「象山の二虎」と呼ばれた。 象山いわく「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである」と言わしめた教育者である。 幼い頃に左目を失明し、様々な病気を患っていた。享年50。 山本有三の戯曲「米百俵」は、昭和18年(1943年)に書き下ろされ、新潮社から出版された。しかし戦時中で、軍部から反戦思想というレッテルを貼られ弾圧を受け絶版となった。 1975年(昭和50年)、長岡市は「米百俵 小林虎三郎の思想」を復刻出版する。 1979年(昭和54年)歌舞伎座で上演された。 撮影 2010年03月30日18時18分 1/125 F4.0 ISO1600 長岡市寺島町 ハイブ長岡の前 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.04.03 23:08:31
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