テーマ:九州 旅と食(1340)
カテゴリ:宮崎
前回の日記で、鵜戸神宮に行った事を書きました。
その後、生井俊氏とタルイタケシ氏をお連れして、飫肥城(おびじょう)に行きました。 飫肥城のことをいろいろ聞かれたのですが、全く何もお答えすることができず、、、 非常に申し訳ない思いをいたしましたので、 この場でお詫びの気持ちも込めて飫肥城を説明いたします。 飫肥は戦国時代、飫肥城の覇権をめぐって伊東家と島津家の間で激しい合戦が繰り広げられ、 合戦は80余年にわたって続きました。 伊東義祐は、飫肥城主の島津忠親を打ち破り、念願であった飫肥城を奪いますが、 すぐに島津氏の手に戻りました。 その後、天正16年(1588年)、豊臣秀吉の命により、義祐の子・祐兵(すけたけ)が 伊東家の居城として入城し初代藩主となり、飫肥城下の建設に取りかかりました。 以降、明治初期まで280年間、伊東家は14代にわたって飫肥藩を治めました。 伊東家は当時5万1千石を誇り、その城下町は「九州の小京都」とも言われているとか。 飫肥城は、寛文2年(1662)の大地震をはじめ、3度の地震が襲いました。 そのために大規模改修を余儀なくされました。 明治維新間もない明治2年(1869)、伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に移り、 明治6年(1873)には、飫肥城内の建物全てが取り壊されました。 取り壊された大手門は昭和53年(1978)6月に樹齢100年の飫肥杉を使用して復元されました。 だから、今は門しか残っていません。。。 ここを上がっていくと・・・ 立派な飫肥杉がそびえたっています。 何だか、すごく荘厳な気分になります。。。 何でしょうね、、、私は昔から、木には命をビンビン感じるのです。。。 心が洗われたような気がしました。 ちなみにこの「飫肥杉」、発祥は今から370年も前の元和時代です。 飫肥藩は江戸時代初期に石高を誇張したため出費がかさみ財政的に厳しい状態でした。 そこで「飫肥杉」が藩の財政を助けるために植林され始めたのです。 油分が多く腐りにくい飫肥杉は江戸時代には主として船を造る弁甲材として、 また建築材として使われ、全国から注文を受けていました。 その後飫肥杉は造林を重ね、明治、大正、昭和にかけて黄金時代を築きました。 この近辺には、歴史資料館や商家資料館、振徳堂(しんとくどう)という藩校跡や 豫章館(よしょうかん)という武家屋敷など、歴史好きの方には興味深く見られるものが たくさんあります。 歴史がどうも苦手という私みたいな人にもおススメできるのは、四半的(しはんまと) こちらは左からタルイタケシ氏、生井俊氏、うちのパパです 島津、伊東の戦国時代、農民が竹の半弓で戦に参加し、勝利に大きく寄与したそうです。 その功績により、娯楽用として農民も弓矢を持つことを許されたと伝えられています。 ここ四半的は、目南市の無形民俗文化財に指定されており、競技としても広く親しまれています。 射場から的まで四間半、弓矢ともに四尺五寸、的が四寸五分で、 全て四半であることから四半的と呼びます。 初めてでも、指導員が丁寧に指導してくださいます。 この3人はみんな、初めて弓矢を持ちました! なんと、10本の弓を射て300円です!(丁寧な指導付き!) 歴史を説明することはできませんでしたが、すごい初体験 私は、かっこいい3人を見て喜んでいました お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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