生目神社
生目神社(いきめじんじゃ)・・・宮崎市生目というところにあります。生目神社は、古くから眼病にご利益があるとして日本だけでなく世界からも参拝者が訪れるそうです。実はうちの長女、小さい頃から目が悪いのです。私が大学時代、視覚障害の勉強をしたこと、この宮崎に住むようになったことなど・・・なんとなく因縁を感じます・・・年末に、長女の目の病気が再発し、入院しました。その時に、友人が生目神社にお参りし、お守りを買ってきてくれました。うちはクリスチャンなので、お参りもお守りも必要ないのですが・・・その友人の気持ちが、すごくすごく嬉しく・・・感動しました。長女は年末に一度退院しましたが、昨日再入院しました。私も彼女も、少し落ち込みましたが、成人式までには退院し、晴れ姿を見ることができそうです。生目神社の由来をお話しいたします。いくつかの由来があるのですが、そのうちの一つ、衝撃的なものを・・・○平景清由来平家が壇ノ浦の戦いで敗れた後、源氏の大将、頼朝は景清の優れた武勇を惜しんで家臣として重く用いたいと思ったのですが、景清はそれには及ばず、西国に流してくれるように願いました。頼朝は景清の意思を汲んで日向勾当として宮崎郡北方、南方、池内村、の三百石を与えました。文治二年11月、景清は家臣の大野、黒岩、高妻、松半、山野、旧橋、重長、有半等を引き連れて日向国に下り、下北方古城(宮崎市)に居城しました。日向国に住んで後、景清は滅亡していった平家一門の人々を供養しようと、深く神仏に帰依しました。そして、下北方名田(みょうだ)、帝釈寺(たいしゃくじ)、岩戸寺、浮之城、正光寺などを建立しました。景清は、新しい環境のこの地で静かに余生を過ごしたいと考えましたが、過去にあった記憶がよみがえり、また、源氏が権勢を欲しいままにしている現実などに対する苛立ちなどのために、もがき続けました。ついにはその苦しさから逃れるために、自分の両眼をえぐって投げ捨てました。投げられた両眼は大淀川を越えて生目神社の松の木の枝に引っかかって留まりました。以来その松は、「目かけの松」と呼ばれていて、本殿の真後ろにその何代目かになるという子孫があります。現在、「目かけの松」はきちんと区画された場所にたっていますが、周囲の木々が高く、それらの鬱蒼と繁った葉に日光が遮られて、少し気の毒な状態です。景清の両眼は神の霊力と化して、生目神社は全国に眼病に効能がある神社として知られています。生目神社は平(藤原)景清を祭神として、その両眼を祀っているといわれています。日向国で孤独な生活をつづけていた景清は、あるとき霧島山の参詣を思い立ち、西諸の眞幸(まさき)から登山しましたが、その帰途、健保二年八月十五日、山中の池のほとりで病死しました。ときに62才、景清の遺骸を宮崎に持ち帰り埋葬しました。現在、宮崎市下北方にある景清廟がそれであり、今でも近隣の住民に手厚く供養をされています。景清は尾張の熱田で阿古屋という馴染みの女性がいました。そして、人丸という娘を設けましたが、女では役にたたないということで、鎌倉の亀が江が谷(かめがえがやつ)の長者の家に預けておきました。人丸は成長したのち父景清を慕ってはるばる日向の地にやってきました。そして、盲目の父の世話をしていたといいます。しかし、建永元年9月、父に先立って27才の若さで亡くなったのです。人丸の墓は景清廟の一隅にあって、同じように手厚く供養されています。また、廟の近くの土持院には、生前景清がつかっていたという春日野の琵琶が今も保存されています。