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昨日のブログで、日本が海外にいる日本人に対して排他的という理由のひとつに歴史上長い鎖国時代に起因しているのではという意見も出ました。
鎖国といえば5年前のある出来事を思い出しました。私が日本に一時帰国していた時のこと。新橋からゆりかもめに乗ってお台場に行く途中の事です。まず予備知識で、鎖国時代が終焉したのはペリー来航によるものというのはご存知の方は多いと思います。 続けます。そのゆりかもめに、ペン2本が交差しているエンブレムをつけた大学付属の小学生らしき子供達が乗ってきたのです。車内放送で「次はお台場、お台場」とアナウンスがされました。 学生A:「お台場ってペリーだろ?」 私の心:(?。。。) 学生B:「ペリーって浦賀だろ?」 私の心:(うぉ~忘れてたよ。。。) 学生A:「うん。ペリーが最初に寄航したのは浦賀港だけど、再来の為に江戸幕府が急遽建設した大砲台があるからお台場っていうんだ」 ペリーですぐさま浦賀と出てくるB君もすごいと思いましたが、私的にA君は、も~超尊敬に値する小学生です。やはりこの大学付属のご子息様は違うな~と感じたものです。それで私も自分で自分が恥ずかしくなって調べましたよ。以下、調べた内容です。 1853年7月8日、ペリーを司令長官とするアメリカ東インド艦隊が4隻の軍艦で江戸、浦賀港に入港。ペリーが江戸に上陸すると強要するも、7月14日に江戸湾を出航。この黒船ショックに幕府は8月、江戸の港の防衛のために品川沖海上に大砲を備えた人工島に台場(12ケ所の大砲台場)を築くことに着手。 1854年1月ペリーが再来航するが、完成した大砲の射程距離は黒船の大砲より短く弾が届かないという物であった。さらに未完成の砲台は安政大地震と財政難により工事が中止され、第4台場は「崩れ台場」と呼ばれる。またペリー艦隊の軍事的威圧に屈服、日米和親条約を締結、日本の鎖国は終焉となる。 お台場といえば臨海副都心が有名ですが、当時日本全国の臨海部には1000箇所以上の砲台場が作られたそうです。日本中にお台場があるんですよ。「お」がつくのはなぜかということですが、将軍家、幕府に所属する機関、施設は、基本的に「御」がつくようです。「お上のもの」ということで、台場は幕府の軍事施設である「砲台場」なので「御」をつけて呼んだのです。町名などでも「御」がつく町名(御駕籠町、御箪笥町……)などは将軍直属の官吏、職員等が住む町であることを示します。 ブログランキング。応援宜しくお願いします。 さあ!カチッと!JUST DO IT ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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