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2008年08月15日
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カテゴリ:もしも私が
今日は63回目の終戦記念日です。

8月6日の広島原爆。8月9日の長崎原爆。そしてこの15日の終戦記念日。平和を願い、戦争について深く考えさせられる毎年この8月。私はいつも1冊の本を思い返します。

それは、遠藤誉さんという方がかかれた「チャーズ」という本当にあったことが書かれた本です。現在は増刷はされていないようですが、小説からドラマで有名になった「大地の子」が、この本から内容をパックったのではないかと裁判にもなった事は有名です。


大地の子(1)

chase.jpg


私の父は、昭和5年生まれ。そして母は昭和10年生まれ。2人とも日本が戦争の真っ只中で幼年、少年期を過ごしました。日本は中国に侵攻して満州国をつくり、父は大連。そして母は旧満州国首都であった新京(現在の長春市)で生活。そして終戦を迎えました。

ちょっとこの本について説明しておきましょう。

著者:遠藤誉氏(筑波大学名誉教授) 1941年に中国の長春(当時の新京)に生まれ、帰国は1953年。長春に立てこもった国民党軍を共産党軍が包囲して長春市民に30万人の死者がでました、著者は1948年の長春包囲戦を7歳にして生き延びました。その後30年経って、著者の記憶によって執筆、出版されました。

チャーズとは中国の地名。戦前日本が大陸に満州帝国を作ったときの首都新京。現在名は長春。そこを終戦時中国共産党の八路軍が日本から取り返し、また直ぐ国民党が取り返します。
そしてまた中国の共産党の八路軍がその街を包囲しました。しかしその包囲は長期に渡り、発電所が止められ、新京市内は食べ物が無くなり、人々の餓死体を各所で見られるようになりました。飼い犬が子どもの死体を食いちぎって持ち帰るようになって、著者の家族はこの街を脱出します。その時著者は7才の女の子。

国民党が作った鉄条網を抜け出した人々は、八路軍が作った鉄条網に阻まれ市外へ出ることが出来ません。国民党と八路軍の鉄条網でサンドイッチにされた狭い地域。人が人の肉を食べる地獄のような悲惨な状態が生まれます。誉さんが人目を避けて土の上で小便をしたとき、泥の中から遺体が出てきます。この通称名が「チャーズ」です。
「チャ」とは漢字では上と下を重ねて書く一文字。ここで死地を彷徨った人々は、日本人も中国人も居ました。

日本が敗戦で大陸から引き上げて以降、共産党も国民党も日本人技術者を必要としていて、著者の父が薬品の技術者であることを名乗り、この死地、「チャーズ」を家族達一同が八路軍側に抜け出すことを許されます。その当時著者の身体の腕の傷が結核菌で犯され、膿が泊まらず、そこからウジ虫が湧くという最悪の状態でした。このため著者誉さんは目だけが生きていて口は何も語らないという状態が続きます。


私の母は、著者と同じ市、同じ町で育ちました。母が通った「室町小学校」。という名。そして私も幼い頃に話し聞いた母の記憶にある場所。その全てがこの本から出てきます。

母は祖父の勤めていた会社(損保会社)が会社資産を売却して大金を持っていた事、そして終戦から間もない時期であった為、幸いにもこのチャーズを抜けるルートをとらずに帰国する事ができました。

小学校の同窓会で「●△さんは行方不明でたぶんチャーズで餓死したのでは」という話題も出ることがあるそうです。30万人の死者が出た中で、日本人も何万人という犠牲者が出たことは、公表はされていませんが本当のようです。

母は旧新京で市街戦にも巻き込まれた経験もあり、「部屋の壁から壁へ弾丸が通過した」という記憶もあります。それからロシア兵?共産党兵?国民党兵?どちらか忘れましたが自宅に略奪目的で踏み込まれ、部屋に隠れて難を逃れたという話も聞いた事があります

母は男・女・男・男・女の5人兄弟の長女。祖父は終戦間際に徴兵されて捕虜になりシベリアに抑留。体の弱い祖母を助けるために、母は乳飲み子の妹をおぶり、お兄さんは弟2人の面倒を見ながら命からがらで日本に戻ってきました。

今の日本で何日も髪の毛を洗わないで、頭髪が石みたいになっている路上生活者の方がいらっしゃいますよね?母はそれを見て「私だって終戦で引き揚げの時はあんな髪の毛になってた」と言った事。忘れられません。

私はこの「チャーズ」の単行本を香港で見つけ、「なんか、お袋が真剣に読んでたな~」と思って買ってみたのです。読み終えた後、なんともいえない重いというか、暗いというか、いままで感じたことのない感覚に陥りました。

そして、直ぐに母にメールを送信しました。

「よく生き長らえて、そして私を産んでくれました。。。感謝します」

そして父から返信がありました。(母はホントに文章ベタなので。。。)

「私がもし5年早く生まれていたら。私は徴兵され戦地に行って戦死していたかもしれません。お母さんがもし5年遅く生まれていたら、お母さんは中国残留孤児になっていたかもしれませんね」


自分が人間として、肉体という形あるものとして44年、今もなお存在しているのは、両親が戦争に耐えて、食うものも食えず生き続けてくれた結果。という事を毎年8月は、本当に深く感じる時でもあります。


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最終更新日  2008年08月15日 17時53分10秒
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