テーマ:スピリチュアル道(400)
カテゴリ:あなたへのメッセージ
おはようございます。 先日書いてから、また開いてませんでした たくさんの書き込みありがとうございます。 おとといのヨーガのレッスンで、りえちゃんに 「コメントたくさんついてましたね。」と教えてもらいました 個々のお返事はのちほど。
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そのりえちゃんと話していたことを少し。 私の2度目のインド旅行は、流れるように起きていった。 2007年に行ったので、消えてしまったブログに書いていたその話。 知ってる人も多いと思うので、ざっくりと。
ある日、ふと「インド!」と思ったら、インド旅行に誘われた。 当時通っていたヨーガ教室の会長さんは、ある会社の社長さんで、 仕事の視察のために他の会社のお偉いさん2人とインドへの視察旅行を企画していた。 誘ってくれたのは、その会社の社員で、ふわっとのメンバーのゆりこさん。 営業成績がトップの社員だったので、彼女はそのご褒美旅行として連れてってもらうことになっていた。 会長さんと私は、まぁ、お会いすればご挨拶をして、話もするくらいの関係だったが、 「なぜか、RINKOさんも誘ってあげたらどうか?」と言ってくれたらしい。 行先がインドのどこかも決まっていない旅だったのだけれど、 「インドならどこでもいいや。」というノリで、喜んで連れていってもらうことにした。 一度目のインド旅行は、宮廷ホテルに泊まる旅で、タージマハールなどの名所を巡ったので、 「できればヨーガの聖地リシュケシュに行けたらいいなぁ・・」とは思った。
インドに着いて、社長さんは、インド人のコーディネーター(兼取引相手)と引き合わせてくれて、 「どこでも好きなところに連れていってもらいなさい。」的な感じだったが、 コーディネーターは、なんとな~く前回行ったことのあるところに案内するつもりだったらしく、 リシュケシュはあっけなく却下された。 視察の二人は初めてのインドだし、(彼らはどこでもいいと言っていたが) もう一度、同じところでもいいかな、と思った。
ところが。 その日の夕食の席で、なぜか社長さんが、 「彼女たちをリシュケシュに連れて行ってやってくれ。」と言い出した。 インド人コーディネーターは、変更がめんどくさかったらしく、 「もうホテルがいっぱいで取れないし、あれもこうだし、これもこうで・・・。」と もろもろ言い訳して自分たちの企画を通そうとしたところ、 またまたなぜか、ほんとにどうしてそこまでして・・と思ったのだが、 「彼女たちをリシュケシュに連れていけないというのなら、今回の取引はなしだ!」 とまで言い出した。 え。ええーーーー これにはインド人もびっくり。 すぐにあちこちに携帯で連絡を取り、そして翌日から私たちはリシュケシュに行けることになった。 >なんだ~、やればできるんじゃん。
翌日から社長さんは、その取引相手のインド人と二人で私たちとは別行動。 視察の二人と私とゆりこさんは、リシュケシュへ。 ガンジス河に足だけ入り、ヨーガもできて、大満足 だけど、視察の二人は・・・ 旅の楽しみと言ったら、「豪華なホテルにおいしいお食事とお酒」という感覚なので、 リシュケシュには不満足なようだった。 なんせ、聖地でお酒は飲めないし、売ってもいない場所なのだ。 その上、ヨーガなんかやらされたりして。(笑) 彼らの発言や行動から不満を察知できたので、 ゆりこさんと相談して、私たちはもう十分満足したので、 あとはデリーに戻って、彼らの喜ぶことをしようと決意し、社長さんに連絡。 けれども、社長さんはすでにデリーから離れていて、 最終日にしか戻れないという。 なので、視察組の二人に直接「まだそこで過ごすように。」と話してくれて、 視察組もあきらめと共に納得もして、町境の闇ショップ?にお酒を買いに行ったりして、 なんとか楽しく過ごしてました。 私とゆりこさんは、ガンジス河での沐浴と(頭まで河につかる) 中級のヨーガのクラスも受けることができたのでした。
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はじめのひらめきから、旅の流れまで、起きることが起きたという感じ。 行くことになっているところには、必ず行く。 やることになっていることは、必ずやることになる。
そういうと、「絶対行きたい!というような、執着がなかったから良かったんですかね?」 と聞かれたが、私はそうは思わない。 ちょっと前なら、「そうだね。」と答えていたと思うけれど。
「執着がなかったのが・・」というのは、スピリチュアルな人?の間ではよく聞く言葉。 ほんとによく聞く。 私もさんざん言ってきた。(笑) だけど、今は、執着を手放せば、願いが叶うとか、執着してるから願いが叶わないとか、 そういったことではないなー と思う。
起きることになっていることが起き、起きないことになっていることは起きない。
起きることになっていることを願いとすれば、それは叶うし、 起きることになっていないことを願えば、それは叶わない。 とどのつまりは、起きることになっていることを、感じ取れる力があるかないかが、 願いが叶うか叶わないかの明暗を分けるのだろう。
感じ取れる力とは、我のない心。 (厳密にいえば、心さえ我なのだけれど、 この視点から話すとまた話がややこしくなるので、今回は深追いしないことにします。) 我欲でいっぱいの心には、それ(起きること)がわからないから、 とんちんかんな願いを持ったりしてしまうのではないか。 そう思います。
いろいろ経験を重ねて、わかることも多くなり、思うことも変わってきた部分があるけれど、 変わらないのは、やっぱり私たちがする(べき)ことは、
それ以外には、何もない。
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