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カテゴリ:スピリチュアルなお話し
前の日記、『究極の錬金術』という本の中で、OSHOは奥深いことをたくさん教えてくれている。
この本はウパニシャッドという古代の英知を優しく解説してくれているのですが、そのひとつに、 「我は、『それ』なり」 という、究極の智慧について解説されている。 いろんな意味合いが込められていながらも、単純にひと言で真理を突いた言葉。 「我は、『それ』なり」 『正しいとか間違っている』と言ってしまうと、対極が生まれます。 何かを『正しい』と言い張る時、自分の中で何かを『間違っている』と先にレッテルを貼っているからそのことを『正しい』と言っている訳ですよね? だから『正しい』と言う前には、すでに自分の中で『間違い』の暗い部分を生み出してしまい、その間違いの潜在的想念によってそれを引き付けやすい状態になってしまう。 というのは僕の個人的な自論なのですが、 必要もないのに、いたずらに正しいとか間違いとかこだわらず、ただ『それ』と言って対処すれば、対極のエネルギーの振り子に振り回されずに済むわけです。 正しいとか間違っていると言って『こだわる』と、常に正しい方から間違いへ、間違いから正しい方へと振り子は揺れてしまう。 ただ『それ』と言う。 そこには正しいも間違いも紛争もない。 ただその役割を対処するだけの、ただ『それ』に溶け込むだけの『全体性』がある。 神とか仏、父なる神、母なる神。 これらもこう呼ぶことでその反対のものを生み出してしまうし、ともすると分離してしまう。 全体性(ワンネス)から切り離されて、『自分』と『神』。 『自分』と『仏』。 『父』あるいは『母なる神』と、『私』。 などと言った分離の苦しみ、二元性を生み出してしまう。 だからウパニシャッドは、神や仏をそう呼ばず、 ただ、『それ』と呼ぶ。 そこには神と自分。 仏と自分と言った、切り離された二分性はなく、かといってそれと一つであるという一元性に縛られず、ただ全体性としての存在をしめすことになりうるのです。 あらゆる場所に、ただ存在している『それ』。 パソコンや机、テレビにじゅうたん。 壁にふすまに道路の車のエンジン音。 風の声に、空気の静寂。 窓の外の公園にはしゃぐ子供たちの笑い声 『それ』が、自分の内側にある空間と共に広がっていて、『それら』を今も満たしてくれている。 『それ』もいいね。 『それ』もいいかも。(笑) 『それ』で、いいじゃん!(^0^)/ ========================= 今日もあなたの愛の『プチプチ』を!(^0^)! ここと→ 『人気ブログランキング』 ここ→ 『精神世界ランキング』 ありがとうございます。<(_ _)> 感謝だす。 ========================= 僕のメルマガはこちらです。 → 『マスターたちの希望実現の法則』 僕のHPはこちらです。 → 『エド&メイジーSpiritual World』 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 14, 2006 04:22:57 PM
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