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スピリチュアルカウンセラー 詩音の日々(2003年11月開設)

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2016.06.13
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カテゴリ:ひとりごと
先日、TVで「不寛容社会」というテーマで

ある番組の中で若者たち中心に論議してました。


確かNHKだったかな?

特にネット上の不寛容がテーマでした。



「不寛容社会」は生きづらいということらしく

ネット上で「炎上」と呼ばれる過剰な批判、つるし上げ、個人攻撃の状況になる

件数が、うなぎのぼりだと説明があった。


私は、スマホは持ってないけど、

常にスマホを手にしていて、

しかも精神的に退屈している人は、

何でもいいから刺激が欲しくなるから

炎上には参加したくなると思う。


炎上とはよく言ったもので、

火事場見物に似ているのかもしれない。

どんなに人の不幸を見ても、自分には被害は及ばないが、大きな刺激を得られる。

あるいは、さらに自分が完全に守られた状態で、さらに火に油をそそぐこともできる。

それが正義であろうと、不義であろうと。


ネット上での「炎上」件数が増えているかどうかというのは、

スマホの普及台数に大いに比例すると思うので、

とりたてて、人類が今になって何か変わったわけではないと思う。


ただ、「不寛容社会」ということで議論しているのを見ていて、

私は、逆に希望の光が見えた気がした。


「不寛容」の逆は「寛容」

「不寛容」について意識をするのは、

人が「寛容」でありたい、あるいは「寛容」に扱われたいと心の中で願う気持ちの表れだと思う。

その欲求を自覚すること、願うことは素晴らしいと感じて嬉しくなった。


犬や猫や、ライオンもキリンも象も亀も、

寛容であろうとはまず思わないはず。

寛容であれば、真っ先に飢え死にするかもしれない。

歴史上、突然変異で生まれつき寛容な気質をもった生命体が誕生したことがあったのなら、

多分、あっという間に絶滅してしまったはず。

でも、もう少し深く考えれば、彼らは別に不寛容でもない。

自己の生命維持と種の保存に有利なことを本能的に選んでいるだけだから。


人間は、「自己の生命維持と種の保存を最優先する」という

その自然(本能)に対抗しようとしているのかもしれない。

さすが、動物とは違う、特別にスピリチュアリティの高い生命体だ。

人間は肉体だけの存在ではないからね。それを何処かでちゃんと気づいている。

だから悩む、苦しむ、後悔する。



一般的に、人は過去の時代は、今の時代よりずっと良かったと思う傾向があるような気がする。

昭和の時代はよかった。いまよりずっとのんびりしていたし、

人と人の距離が近くてお互いに助け合って幸せに生きられていた。

そう思うかもしれないけど、それは思い違いだと思う。


そう、確かに生活はスローペースだったし、

貧しかったので、人々は助け合わざると得なかった。

だけど、今当たり前に手に入っている素晴らしいものが、

当時は、ほとんど手にすることが出来なかったことを見逃している。


生命の安全、今や簡単に治療出来る病気による突然死、後遺症、

天候不順による飢饉、充分な教育が受けられないことによる視野の狭さ、可能性の閉鎖。

戦争に巻き込まれることによる人的、社会的、経済的損失

そして何より、自分の個性という、何か人と違う独自の気質を表現する「自由」

(今までは自由を求めた人は社会から処刑、抹殺されていた)

数え上げたらきりがない。


人類はそれほど愚かではない。

多くの犠牲と痛みと悲しみと後悔と不幸、

そういうものと引き換えに、多くの貴重な経験を積み重ねて来ている。


科学技術を進歩させることによって、古い神話はどんどん捨て去らてゆく。

新しい神話だって完璧なものではないけど、少なくとも、日々客観的、普遍的な真実に近づいている。

もはや地球は球体だと言っても、死刑にされない世の中になった。


「寛容」でありたい、「寛容」に扱ってもらいたい。

それこそが人間の魂からくる願いだろうと思う。

「寛容」に扱われるためには当然自分が「寛容」でなければならないけど、


一体全体「寛容」という言葉で表そうとしている人間の心の状態って

どういうものなんだろう?


それが分かっていなければ「寛容」にはなれないし、求めることもできない。

これは、各自が考え抜かないといけない。

納得した答えをつかむまで、自分の中、奥深くまで入って問い続けないと答えは見つからない。

徹底的に、自分を、古い自分を追いつめないと答えは分からない。

だから、人と議論しているだけで止まっている間はいつまでたっても答えは出ない。


でも、人と議論することで、同じものを求めている人間がここにもいるのだと

確認できることはできる、少なくとも励みにはなる。

私たちは、違うように見えて、ほとんど同じような存在。

でも、答えは外にはない。いつも中にある。

だから必ず一人で静かにすわり

孤独になって探さないと、考えないと見つからない。

しかも、問えるということは、答えがあるということ。

あと一歩でその答えをつかめるところまで来ているということ。


出来ることなら、先延ばしにしないで見つけてしまおう。

だって、人生は実に短い。明日はもう旅立ちの日になるかもしれない。

私たちは永遠に生きる?生きない?

それも自分の中に答えがある。





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最終更新日  2016.06.14 03:57:51
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