|
カテゴリ:見て面白かったもの
ネタばれがあるので、未読の方は読まないほうがよろしいかと思います。
乙一さんの作るお話はどれも独特な味を持っている。共通なのは、そのいちばん底流にある、優しさのようなもの。ような、というのは、普通の感覚の人にとっては、それが優しさだとは思えないような優しさもあるから。想像できないような残酷さも差し出されるが、受け取ってみると、それがそれほど不快でない。それは、差し出されたものが、倫理を越えた慈愛のようなものを含んでいるからである。 暗黒童話は、寓話から始まり、その寓話がBGMとして、ストーリーの進行の後ろで静かに鳴り続けている。お話の主軸は、事故で記憶を失った女の子が、移植をされた眼球の見せるビジョンに引かれて、ひとつの物語に決着をつけるというもの。それに、1年前に起こった事件や、さらなる過去に起こった事件が絡みつき、ひとつに収束していく。 このお話の中では、乙一さんのすべてのお話に共通するように、憎むべき加害者はいない。すべての人間が欠落を持ち、決して見つけることの出来ないものを捜し続けている。まるで、求めてはいけないものを求め続ける、寓話のカラスの様に。 しかし、もっとも怖ろしいのは、否定されることである。記憶喪失をしている間の記憶は、記憶が戻ると消えるという。記憶が戻るのは、以前の自分にとっては好ましいことかもしれないが、記憶喪失になっている今の自分にとっては、自己の消失を意味する。快癒することが、現在の自分の終焉を意味するなら、どうして今の自分が記憶を取り戻そうとしなければならないのだろう。それが、暗黒童話の主題である。 試論1; 人間が、自分自身のために生きているのなら、記憶を取り戻す必要などまったくないのだ。記憶を取り戻すのは、自分を囲んでいるものたちのためである。自分を囲む人間や、生き物や、大事にしていたものの価値が、忘れ去られているのを許せないから、取り戻そうとするのである。だとしたら、それは自分のためではない 人間は、他者の意識の中に生きている。決して自分自身のためにではない。考えてみよう。個性だのなんだのも含め、人間の評価は、すべて他者との関係の中で築かれていく。その人間だけの価値などというものは存在しない。そしてこれは、人が自分ひとりになった時には、生きる意味がないということを意味している。 通常、人間は一人だけになろうとすることはない。世捨て人は、世を捨てるという行為で、周囲に自分を強くアピールする。自殺者は、自らを殺すことで、周囲に自分を深く印象づけようとする。それは、一人になろうとすることではなく、より周囲との関係性を深めたいがための行為である。 あらゆる人間の行為の中で、周囲との関係性を断とうとするものは、仏教あるいはそれに類する、自己放下を目指す思想そのものである。真に解脱すると、そのものは白痴と大差ない。どうしてそれを目指すかといえば、仏教の思想の中では、絶対者の思想が放下であるとされているからである。世界は、白痴の神の戯れで創られているのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 19, 2004 01:07:59 PM
コメント(0) | コメントを書く
[見て面白かったもの] カテゴリの最新記事
|
|