1 暗示の種類
暗示という言葉は、きわめて多義的な概念でありますが、ここでは催眠術に関する言葉の暗示についてだけ述べることにします。催眠術に関する暗示とは、
「術者から与えられた言葉の暗示は、被術者が無批判にどうしても従わなければならない指図である」
ということになります。
そこで、催眠術に用いる暗示の種類は、次の五つにわけることができます。
1 催眠術誘導暗示
これは、催眠術をかけようとするときに、その事前に与える暗示であって、
「これから催眠術をかけます」
と、被術者に予告します。これはまことに簡単な言葉ですが、もっとも大切な暗示であって、被術者はこの誘導暗示によって、心身ともに催眠術に感応する態勢となります、もちろん、無意識にそういう態勢になるのです。
ですから、「この催眠術をかけますよ」とういう誘導暗示を与えずに、いきなり「あなたはその椅子から立ち上がることは出来ません」といっても何の効果もありません。ただし、前述の「催眠術のかけ方」の「集団の人にかける場合」の項で述べましたように、私が日本赤十字社病院の講堂で公開実験を行いましたときに、観衆の方からの質問に対し私が答えましたとおり、私の実験を見ておられる人々に対しては、「あなたに催眠術をかけますよ」と言わなくても、直ちに催眠術にかかるのです。これは、私が行う公開実験を見ている人々ですから、それが誘導暗示となるのであって、あらためて誘導暗示を与える必要は無く、たとえ反抗しようとしても、直ちにかかるのです。
2 催眠状態中の暗示
これは、催眠状態(すなわち術者の与えた暗示に反応した状態)になった被術者に対して与える暗示であって、病気の治療、悪癖、非行の矯正等を行なう場合、または公開実験を行う場合にあたえる暗示のことであります。たとえば、
「あなたの喘息は、これで完全になおりました」
といって与える暗示、これに類する暗示のことです。
3 残続暗示
これは催眠状態中に与えた暗示が、催眠術を終わった後までも引続いてその効果を保つ暗示のことをいいます。たとえば、
「あなたのてんかんは、これで完全になおりました」
といって与えた暗示が残続暗示で、この一回の施術で与えた暗示が、被術者の脳に感銘し、残続暗示となって何十年の末までも、すなわちその人の一生涯効果を保つことになります。これは残続暗示といわなくても当然残の続暗示になるのですから、術者は被術者に対し残続暗示などと説明する必要はありません。
病気の治療でなく、催眠術の実験の場合に洗える暗示は、当然実験の時だけの暗示であって、たとえば被術者に対し、
「そのコップの水が、私が合図をしますと清涼飲料水(または酒)に変わりますから飲んでみてください」
などという暗示は残続暗示でなく、その場限りの暗示です。しかし、
「そのコップの水が酒になりますから、それを飲んでください。大いに酩酊して、明朝まで酔いがさめません」
という暗示を与えるならば、それは暗示のとおり明朝までの残続暗示となるのです。
4 覚醒暗示
「覚醒」とは眠りから覚めるという意でありますが、催眠術は眠るのではありませんから「覚醒」という言葉は適当でなく、事実は「催眠術を解く」暗示です。
催眠術を解く場合の暗示については、この本の「第4章 催眠術のかけ方」の「個々の人にかける場合」の項で述べておきましたから、重複のきらいがありますが、順序として暗示の例を次に述べます。
「これで催眠術を終わりましたから、催眠術を解きます、私が1,2,3と、三つ数えますと催眠術が解けて、あなたは頭が軽く気分がさわやかになります。では合図をしますよ・・・・」1、2、3、はい、これでよろしいです、目をあいてください」
これは暗示の例であって、数えるのは、いち、にい、さん、でも一つ、二つ、三つでもよいのです。五つでも十でもよいのです。この場合、被術者の肩などを軽く叩くのは感心しません。被術者にはさわらないのがよいのです。要はただ言葉の合図だけでよいのです。
2 暗示の与え方
1 暗示を与える時の態度
暗示を与えるとこの施術者の態度は、誠実で慎重でなければなりません。声はあまり高音でないようにしなければなりません。静かで落ちついた普通の会話の時の声で言うのがよいでしょう。合図のときの「はいッ」という言葉も普通でよく、気合をかけるような強い音声の必要はありません。また、あまり低声で、内緒話のようではこっけいに感ぜられる恐れがありますから、それも注意しなければなりません。
また、被術者の年齢の違いや、教育の程度によって、暗示に用いる言葉にも注意をする必要があります。年少者には平易な言葉を用い、年長者や知識人に対してはそれ相応の言葉を用いるようにしましょう。
2 適当でない言いまわしは逆効果
暗示をたたえる場合、適当でない言いまわしをすると、効果がないばかりでなく、時としては逆効果になる場合も起こりますから、そのようなことがないよう注意しなければなりません。たとえば禁酒と希望する人のために与える暗示を、
「あなたはお酒がとても好きだが、それを催眠術の暗示を与えて、今日限り禁酒をする事が出来ます」
と、このような回りくどい言いまわしをすると、「あなたは、お酒がとても好きだ・・・・」という最初の暗示が主になって脳裏に深く感銘を与え、酒を止めたい大事な暗示は効果を失い、酒がますます好きになる、という逆効果ともなりかねないことになります。この場合の暗示は、
「あなたは、ただ今限り酒が嫌いになった。酒は断じて飲めなくなった」
「酒を飲もうとすると吐き気がして、とても飲めない」
と断固とした暗示を与えるべきです。
また、劣等感をなおしたい被術者に与える暗示には「劣等感」という言葉を用いないように注意し、
「あなたは、ただ今から優越感を持ちます。あなたは、誰にも負けない立派な男性(または女性)です・・・・(次の例のような暗示)・・・云々」
被術者の心の中に誇りを持たせるようその人の長所などを聞いて、それを暗示の中に折り込むこと。たとえば、
「教育の程度においても一般国民のレベルの遥か上位にあり」「家庭経済においても一般家庭の人々より遥かに裕福な生活者であり」または「容姿の点においても・・・」「何々の技術においても・・・」
「誰にも負けない(誰よりも優れていて・・・・)」というように、優越感を持てるよう説得の暗示を与えます。ただし「お山の大将俺ひとり」と思い上がることのないよう、ブレーキをかける必要があります。
3 込み入った暗示について
病名が簡単でなく、その種類が多い患者(たとえば、神経痛、対人恐怖症、不眠症、乗り物酔い、胃下垂、便秘、頻尿、等々)の場合には、与えようとする暗示をあらかじめ紙に書いて、あるいは患者が希望する暗示も入れ、それを読み聞かせ納得させてから催眠術をかけ、紙に書いて用意してある暗示を与えるようにしましょう。
4 暗示の回数
暗示は一回、または二回繰り返して与える程度でよく、それ以上繰り返して言うことは患者に迷惑を感じさせる結果となりますから注意すること。
3 暗示の感受性
催眠術暗示の感受性について、多くの人からしばしば質問を受けますが、私が多年の経験によりますと、施術者も被術者も互いに真面目であり、術者に確信があるならば、かかりやすい、かかりにくいという区別がなく、誰でもかけることができ、また誰でもかかるものです。
しかし、「誰でもかかる」といっても、次のような例外があることをことわっておきます。すなわち、
1 幼児にはかからない
「催眠術とは言葉の暗示を感応させる方法である」ということは、前にも述べたところであって、幼児には術者の暗示を了解させにくいから、したがって催眠術にはかかりにくいものです。しかし、これにも例外があって、時には幼児にもかかることがあります。
2 老人にはかかりにくい
六十五歳以上の老人になると、子供のようになってボケる人と、その反対に頑固になる人との二つの別があります。ボケるのは、ビタミンB類の不足な食生活を長年続け、かつ、過重な労働で身体を酷使している人に多いといいます。また頑固一徹の老人になるのは、ビタミンB類が前者ほどには不足しない生活を続け、かつ、脳の働きを続けている人でありまして、その上、自然に感激性も好奇心も失って、ますます頑固になって、他人の説にはどのように良いところがあっても賛成せず、自分の主張を通さなければやまぬという方の人であります。
このようにボケてしまっては催眠術の暗示を了解しにくくなるし、頑固一徹になっては暗示など受け入れようとしないからであります。
しかし、六十五歳以上でも決してかからないわけではなく、私は80歳近い老人多数に催眠術をかけて良結果を上げた経験を持っています。
3 知能の低い者にはかかりにくい
たとえば精神薄弱児にはかかりません。精神薄弱児を収容している学園などでも、知能指数が幾分上位にある者には、暗示の感応が良好なものであります。言うまでもなく痴呆者には全然かかりません。
4 その他に例外がある
老幼者でもなく、精神薄弱者でもないのに、ごく少数なれど催眠術に全然かからない人がありますが、これはどういうわけであるかわかりません。このように全然かからなかった人でも、後日施術をすると、素晴らしくかかることもあり、その理由はわかりません。