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ダン・ブラウン著 越前 敏弥訳 『ダ・ヴィンチ・コード 上』 2004 (株)角川書店 p.20-21
映画化されいま話題の『ダ・ヴィンチ・コード』を図書館で借りることができた。 半年以上前に予約を入れていたのだが、ようやくぼくのところまで回ってきたのである。 それでも1年くらい待たされるかもと思っていたので、意外と早いなと思ったし、映画の公開直前という絶妙のタイミングで借りられたのも良かったと思った。 『ダ・ヴィンチ・コード』はかなり質のよいミステリーである。 そのため面白くって一気に読んでしまった。 ただ、コードというだけあって、暗号の読み解きに絶対的な正解が用意されているのがちょっと気になった。 そういう意味ではやはり『薔薇の名前』のほうが想像力を掻き立てられて面白い。 イエス・キリストの大スキャンダルを隠蔽してきたカトリック教会側の様子がほとんど画かれていなかったのが残念極まりない。 そこにこそ日常のダーク・サイドが潜んでいるのに。 それはさておき、オプス・デイの敬虔すぎるまでの修道僧シラスは、贖罪を自らの肉体に苦痛を与えることで行おうとする。 名前は忘れたが、内側に棘のついたベルトを腰に巻きくことで、力を入れるたびに棘が体に刺さり血が流れる。 その痛みは自分の罪を贖うものとして受け容れていく。 いわゆる原理主義と呼ばれる人達は、この手の修行というか贖罪というか、苦行を自らに強いることが多い。 これは「目には目を、歯には歯を」とおなじ行動原理だ。 仕返しが相手の行為に対して行われることに対して、贖罪は自分の行為に対して行われる。 いずれの場合にせよ、そこは絶望的な正義感が支配する。 その絶望的な正義感に支配されたとき、人間の行動は盲目的となる。 そう、ユートピアの建設のために自分たちは選ばれたものなのだ。 だからそれを汚すやからは排除しなくてはならない。 もちろん人殺しは良心という普遍的な価値基準において絶対的悪である。 だから自らの肉体を傷つけて贖罪する。 彼らにしてみれば完璧なロジックだ。 アメリカの911のテロも、そのほかの自爆テロもおなじロジックが働いていると思う。 それ自体、決して許されるものではない。 しかし、このような原理主義的思想と行動は社会的格差が存在する限り、なくなることは無いだろう。 グローバリゼーションに迎合し、新たな国際社会システムを築いていくか。 超国家を立ち上げて、絶対的な権力を握らせるのか。 逆に脱中心化、地方分権化をよりいっそう進めていくのか。 あるいは社会システムが経済市場原理に侵食されるがままに任せてしまうのか。 楽観的ガイア論をかさに、傍観者に徹するのか。 どうなってしまうのか、どうすればいいのかわからない。 でもそろそろぼくらひとりひとりが真剣に考えていかなければならない時期に達しているのではなかろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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