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ダン・ブラウン著 越前 敏弥訳 『ダ・ヴィンチ・コード 上』 2004 (株)角川書店 p.23
そもそも歴史というものは、ある出来事を時間が経った後に振り返って解釈を与えたものである。 だから歴史は事実ではなく、あくまでも解釈だ。 一方、事実はイベントとして時間の流れの中にマークされただけだ。 それ自体にはなんの意味もない。 とすれば、世界というこの現実的にぼくらをとりまく社会的環境もただの解釈ではなかろうか。 「共通点のなさそうな図案とイデオロギーとの秘められたつながりを長年研究してきたものからすれば、世界とは歴史と事件が複雑に絡み合った蜘蛛の巣にほかならない。・・・・結びつきは目に見えないかもしれないが、表層のすぐ下にかならずひそんでいる。」 この『ダ・ヴィンチ・コード』ではこの解釈としての世界を逆説的にとらえ、表層に意味が隠されているとする。 現実の社会の表層になんらかの意味解釈を加えていく場合、そこに客観性を持たせるために、できるかぎり恣意性を取り除くという作業が必要となってくる。 『ダ・ヴィンチ・コード』では、事実に基づいていると前書きしてあるように、いかにもその解釈上の恣意性というものが取り除かれているかのような書き方がされている。 また、実際そうでなければ謎解き自体が成立しない。 とはいえぼくは、そのスピード感も原因したのかもしれないけど、はたしてこの解釈における客観性ってほんとに担保されているのかとずっと疑問に思いながら本を読んでいた。 もちろん、ミステリーとしては上質で面白い。 ただ、そこに歴史解釈とか、世界の表象の記号性とか、そういう形而上学的な内容は、その客観性に疑問があったので、あまりなかったように感じられた。 西欧の歴史に対してぼくがあまりに無知であることは否定するつもりはないけど、それにしても世界を解釈する上で必要とされる前提が多すぎる。 たとえその前提条件自体に恣意性がないとしても、それらの組み合わせ方には恣意性が感じられる。 まあ、言ってみればその組み合わせの妙が『ダ・ヴィンチ・コード』の大きな魅力になっているんだけどね。 やっぱり、所詮、世界は自分で解釈するしかないんだろうね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年06月14日 08時56分08秒
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