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ダン・ブラウン著 越前 敏弥訳 『ダ・ヴィンチ・コード 上』 2004 (株)角川書店 p.331
洗脳というとかなり生々しいけど、普通の生活で考えるとこういう人は非常によく目に付く。 ほとんどの人は、他者存在を自分の存在の反映媒体として意識する。 自分自身を他者として意識できる人になかなかお目にかかることができない。 自分を他者とするにはプライドが邪魔になる。 あと、自己アイデンティティが崩壊するかもしれないという不安も看過できない。 プライドと不安が相乗されるとそれらは意識下へと送られてしまう。 プライドや不安が潜在的なものになり本人が意識できなくなると、自分を他者として認識することができなくなる。 そうなれば、自分の経験や思想が絶対的な価値判断基準として君臨する。 もはや彼は神となり、自分の「宗教」(価値観)を布教する。 その状態は、まさに強力に洗脳された状態に匹敵する。 中途半端に頭が良くて、それなりに社会的地位がある人ほど、このような自己洗脳状態になりやすい。 したがって、他者不在における自己洗脳は、社会的虚構の上に成立している(あるいは相対的を絶対的とする欺瞞に満ちた)地位と強い関係を有していることが多い。 そして、その相対的な地位が自己アイデンティティへと挿げ替えられているのではなかろうか。 だとすれば、なんらかの形で地位を打ち砕くことができれば自己洗脳状態から開放されうる。 この地位を打ち砕くのが人である場合、大いなるパラドックスを含んでいる。 自己洗脳に陥っている人へ影響を与えることのできる人は、やはり、それ以上の自己洗脳に陥っていることになるからだ。 このパラドックスは国家や宗教、文化や慣習であっても、そこに意識下へ追いやられた他者存在としての自己が現れてこない限り同じである。 どうすれば、意識下へ追いやられた他者存在としての自己を取り戻すことができるのだろうか。 年を取れば取るほど、自己を取り戻すことは難しい。 どのように育ってきたかがやはり重要になって来るのだと思う。 答えが一つであとの解答は全部不正解というような、今の学校教育にぼくは疑問を抱く。 見方を変えれば、その解答自体に無理があったとしても、正解とされる解答が正解ではなくなるか、すくなくとも他にも正解があるという可能性が生まれる。 それを認められるような教育が必要なのではなかろうか。 そういう環境で育てられるのであれば自己を他者として認識することができるようになり、よりいっそうバイアスに左右されずに自己評価が可能になると思えてならない。 もちろんそれには教える側にも勇気が必要だ。 でも、そういう教育環境ができあがれば、必要とされる勇気は少なくてすむ。 そのためにはぼくら大人がまず意識改革をしていかなくてはならない。 自分を他者として捕らえる勇気を持たなくてはならない。 それにはたゆまぬ自己鍛錬が必要だ。 とはいっても別に難しく考える必要などない。 常に自分の行動に向き合う姿勢を保てばいいのだ。 おなじ行動をするのでも、情況によってはその意味は変わってくる。 それを常に意識するようにすれば良い。 面倒くさいけど、そういう努力が自己洗脳から自分を守っていくのだとぼくは思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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