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ダン・ブラウン著 越前 敏弥訳 『ダ・ヴィンチ・コード 上』 2004 (株)角川書店 p.51
象徴というものはそもそもがそれ自体に意味はなく、それによって意味されたものに意味がある。 したがって、意味されるものが変われば象徴の意味が変わってくる。 意味されるものはといえば、地域や歴史的背景に影響されることが多い。 すなわち時空間の制約を著しく受ける。 もちろん、メディアやネットの進化によって、時空間の境界が延長され、ぼやかされている。 あるいは再構築されてもいる。 コミュニケーションまたはコミュニティという意味ではすでに、時空間の縛りはかすかなものになっているかもしれない。 コンピュータの構築した世界の中に引きこもり、ダイレクトにパーソナルな「ウェブ」を張り巡らす。 相手の素性など分らなくとも良い。 「ウェブ」に引っかかってきた獲物を吟味して選ぶ。 いや、逆に自分が吟味されている。 そういう意味でネットはインタラクティブだ。 だからそれまでのようなフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションを必要としない。 話はそれたが、象徴ももともとは人の介在を必要としながらも、それが象徴として成立した後は、定義としての意味合いが強くなる。 つまり、相互主観的に生み出されたサインが、共通主観へと昇華されることによって象徴となり、時間とともに象徴の意味するものが限定され、やがて不可逆な定義となる。 時としてそれは、ステレオタイプのようなものであり、強烈なバイアスにもなる。 とすれば、象徴の持つ働きは言語のものに非常に似ている。 だから象徴がなにを意味しているのか、正確に知るためにはコンテクストを理解している必要がある。 ただし、コンテクスト自体も、歴史同様解釈する人間の主観に左右されることがしばしばある。 いやむしろ、その解釈から主観を100%取り除くことなんて不可能だろう。 客観的な事実としての事象はそこに淡々と存在する。 そこから自分でコンテクストを読み取っていく。 そう考えていくと、「自分」(観念)が介在する限りにおいて客観性などありえないと思えるし、厳密な意味ではそうなんだと思う。 でも、それでも象徴が厳密には不可逆なものだとしても、かなりの信頼度でコミュニケーションをとることは可能だ。 これを考えていくと、それは客観性ではないのだけれど、共通のプラットフォームとして機能しているということができる。 すなわち主観的な解釈でも、人と人とのコミュニケーションには或る程度のレンジ(振り幅)の上に成立していると考えられる。 この触れ幅を左右するのが事象としてのコンテクストだ。 コンテクストにより主観性の触れ幅が限りなく0へと近づいていく。 これが0になるとコミュニケーションツールとしては利用しやすいものとはなるが、その言葉なり象徴は生命力を失う。 言葉とか象徴とか、コミュニケーションツールとしてはぼくらの日常生活になくてはならないものではある。 そして、ツールとしては0レンジの1対1に対応する記号である方が使いやすい。 しかし、記号で100%事象を表現することなどできない。 特に表現したい事象が抽象的なことであればなおさらだ。 記号のレンジを広げることと、的確なコミュニケーションを成立させること。 この一見矛盾する二つの事項を同時に成立させていくことが大事であり、このパラドックスを解く方法を、ずっと考えていき続けていきたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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