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早船 ちよ著 『愛蔵版キューポラのある街』 2006 (株)けやき書房 p.213
以前、砂漠の中から見た都市に音が無くて、その無音の都市というのが新鮮だったということをテレビで言っていたことについて日記に書いたことがある。 このせりふは、家出をした土管の中で生活していたタカユキがふと漏らしたせりふだ。 したがって、情況としては砂漠の中とまったく逆というわけだ。 「外の世界って、じつにいろいろな音をたてているんだなあ」 昼間はあまり気にならない音も、夜が更けるにつれて気になってくる。 とくに都会の場合、「それ」が異様に気になるときがある。 いわゆる「暗騒音」というやつだ。 日常において暗騒音はあくまでも脇役だ。 いや、脇役どころがただのエキストラでしかない。 ところが、エキストラは主役がいなくなり、脇役も舞台裏へ引っ込んでしまうと、必然的にその存在感が表に出てくる。 すなわち、「暗」に閉じ込められていた日常のレイヤが表出してくるのである。 その状態で音の世界のネガポジが逆転し、ぼくは自分の呼吸の音にさいなまれること無く眠ることができる。 だから、ぼくは田舎の「しんしん」とした暗闇で、ぐっすりと眠ることができない。 自分が、自分の「生」がむき出しになる闇夜で落ち着くことができない。 人間の営みが生み出す、途絶えることの無い音。 その音にぼくは母親の胎内にいるかのような安心感を覚える。 自分は生きているだけでいいんだ。 自分は存在しているだけでいいんだと。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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