「島村には虚しい徒労とも思われる、遠い憧憬とも哀れまれる、駒子の生き方が、彼女自身への価値で、凛と撥の音に溢れ出るのであろう」
川端 康成著 『雪国』 1947 (株)新潮社 p.70「国境の長いトンネルと抜けると雪国であった。」これはぼくにとっては「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」という方丈記と同じくらいメジャーな冒頭文ではないかと思う。しかも、どちらも同じくらい大きな意味を持っている。主人公の島村は普段は妻子とともに東京に住んでいる。そんな島村のスイッチがこのトンネルだ。そこで島村は非日常へと入っていく。一方、芸者で島村へと思いを寄せる駒子の日常は根が深い。そんな彼女は日常を忘れようと、酒に溺れ、島村に溺れる。物理的にも空間的にも日常から切り離されている島村は、そんな駒子の努力をひややかに眺め、徒労と切り捨てる。でも、生きること自体、所詮徒労なのではなかろうか。いや、徒労は価値観の産物でしかない。時として、今触れている人の肌、その薄い皮膜のもたらす妖艶な誘いに身をゆだねるのも必要なのではなかろうか。そうしなければ、地に足の着かない浮遊感に、いつまでもいつまでもぼくらの感覚は蝕まれてしまうだろう。まるで島村が空から降ってくる天の川にその身をゆだねていくように。