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週末、病院に行こうと家を出る直前に会社より連絡が入る。
いずれにせよ仕事で寄るつもりだったので、先に会社へと行く。 なんだかんだで、面会時間の終わる夜8時をすぎてしまう。 うーん。とりあえず病院へ向かうことに。 駅までの道すがら同僚と、東京と地方の田舎の違いを語り合う。 田舎にいた頃は、「空がとても近かった」んだそうだ。 東京というのは、空までの距離が感覚的に遠く感じられる。 というのも、自分がいて、そばに家があって、それより高い建物が あって、ビルがあって、東京タワーがあって・・・なんて順々に 高みを見上げて、やっと目線が空まで到達する。 でも、田舎では自分がいて、すぐそばにもう空がある。 東京では自分自身の存在を、何かと比較するように間接的にしか 捉えることができない。でも田舎ではおそらく自分自身と空、宇宙の 関係を感覚的につかみとることができるかもしれない。 人というのは、「感じること」と「考える」ことを両立できるから こそ人なのだと思う。都会の中で「感じること」を忘れてしまうのは とても淋しいことだ。 そんなことを考えながら歩いていると、たまたま恵比寿ガーデンプレイスの そばをさしかかっていて、まるでテーマパークの中のようだった。 自分は地球に生きているのではなくて、テーマパークの中でうごめくゲームの コマのようだ。 やっとのことで病院に到着するも、10時をすぎていて、 入り口は時間外受付のみ。慣れている人ならばなんのことはなく 出入りしているそうだが、救急で来ているのであろう家族の後ろを 隠れるように潜入する。 夜の病院はかなり怖い。 暗闇の中、廊下を歩くのは相当怖い。 呼び止められるのも嫌なので、ナースステーションの前を通らずにすむ 階段から部屋へと接近する。もし僕が犯罪者だったら突破はカンタンなもんだ、 と不謹慎なことを思う。 病室に入ると妻が赤ん坊に母乳を与えているところだった。 しばらくすると娘は疲れたのか、ぐっすりと寝てしまった。 部屋に置いてあるビデオカメラ、APSカメラ、デジカメ、ケータイカメラ、 とりあえずありとあらゆる方法を駆使して記録してみる。少しずつ顔が変化している。 どうにもやんちゃらしくて、生後1週間にして、顔中、傷だらけ。。 声は聞こえているらしいが、目はまだ見えていない様子。声のするほうに 顔を向けるが、目はちょっとうつろな感じ。妻が「もう笑うんだよ」と教えてくれる。 寝ている間にも、たまに笑みを浮かべている。楽しい夢を見ているんだろう。 まだ、とても、とても小さい。 次の日、昼から病室で過ごす。 娘は、お腹がすくと、涙を流さずに泣いてアピール。 ミルクを与えるとおとなしくなり、飲み疲れると、ぐったりと就寝。 たまにむにゅむにゅ声を出し、しばらくするとおもらし。 そんなパターンを繰り返している。 ああ、とても老人に似ていると思った。否、老いるということは、確かに童心に返ること なのだろう。娘の顔を見ていると、それは0歳なのか、100歳なのか、人間にとっての 両端にいる存在そのものの気がした。人はたぶん絶頂まで大人に行き着いたら、再び 若返っていくのだ。老いることは、もしかしたらある意味幸せなことかもしれないと 初めて思った。それはとてもピュアな意味だ。 妻と子供の育て方について、いろいろとシミュレーションしてみる。 まるで親のわがままな知的遊戯だ。 でも、僕は一つのことしか望まない。何をして欲しい、何になって欲しい、とは思わない。 「様々な判断材料を集めて自分自身の意思でしっかりと正しい選択肢を選べる」人間で いてくれさえすればそれでいい。あらゆる世界、あらゆる時代においても生き抜くための とても大切な要素だと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.04.29 15:23:19
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