泥斎2★富小路如泥斎正三位藤原貞直卿に謁し
いんざい新報から下総の加藤清重は、(松戸あ9の名主だった その子孫香取家6代目---平左衛門利彰(1778~1845、68歳卒)(安永7年~弘化2年5月)<号=約斎・朋経・明之・東里・軍曹・倫経・子常・華笑・蕭清、俳号=草深百合丸>1778年/安永7年8月17日生まれ。幼名・太郎吉。俗称・平策。1799年/寛政11年、22歳で江戸に遊学。京洛し、また中・四国を遊歴。1801年/享和元年、佐倉藩儒学者竹州石旦に師事、漢学を学ぶ。1802年/享和2年、25歳のとき、『鹿島詣文』を著わす。1803年/享和3年、26歳のとき、「雑俳奉納額」を丸山観音堂に奉納。1804年/文化元年、27歳のとき、『出鳳台記』、『草深開発旧記』を著わす。1805年/文化2年、28歳のとき、『草深志』上下2巻を脱稿。 『草深志』、開発から136年を経ていた。 「想を温めること十余年、稿を変えること五、六度。」 「此記をば焼くな無くすな大切に蔵めておけよ幾代ふるとも」。 「若し後人此、志を蔵せば千載の末に至りても村老に事を問はずして草深墾田の次第或寺社古蹟請方旧姓七党の事を失せずして村人永世の一助にも成らんか」。1808年/文化5年、31歳のとき、祖父信賢の死。家督を継ぐ。名主となる。1814年/文化11年、37歳のとき、上京中に蔵より出火。御水帳面、御割付皆済目録ほか村用請出物残らず焼失につき、名主を退任し村年寄となる。 このころ、蜀山人太田及び門下鹿都部真顔に師事。四方側俳諧の版者となる。句集を上梓。『草深志拾遺』著す。「草深志2巻既に成りぬれど、古くより村中にいひ伝ふ説どものもれぬれば、その一二の慥(たしか)に記憶せし事、且我知れる事の後世に伝えたきをも俗語につづりて村人の茶話となせり、ただ不侫(ふにょう)が筆力のなきを後人の加削をまちて文辞をなさば、余死後とも猶生きるが如くならむ、是持村事を知るに小助なくは有るべからずといふになむ文化11年仲冬 草深里司 香取彰、明之書」 『草深開発舊證録』、(文化12年5月14日 草深村長・香取平左衛門明之)1822年/文政5年、45歳のとき京洛。富小路如泥斎正三位藤原貞直卿に謁し、鹿の歌碑草深野鹿の歌碑。 華笑の名を賜る。翌年、草深に「歌碑」を建立。 「草婦か支野辺のまは幾の花妻をこふる をしか母色耳にいでけ里」(貞直) (万葉集の歌にかけて詠んだ歌) <草深し野辺のま萩の花妻を 恋うる雄鹿も 色にいでけり> 返歌 「雄鹿鳴く 声に寝れば むすびつる 草深野辺の 夢の暁」(松之舎与清) 「咲く萩の 色にいでてぞ 妻こふる 草深野辺の さを鹿の声」(華笑百合満) 「明けぬとて 野辺より山に 入る鹿も 黄葉観久し なお宿かぬらん」(俳諧歌場真顔)1824年/文政7年、妻・富子4月善光寺詣で旅路で病没。1824年/文政7年、長女・いくに清田家より婿・平作(常賢)。 この年に後妻・菅を娶る。長男陽作が誕生するも金杉村の養子になる。『草深志拾遺』 「伝わりし 文により伝は 年古き むかしのことを 誰にたつねむ 約斎、彰、明之」 「草深志2巻既に成りぬれど、古くより村中にいひ伝ふ説どもの もれぬれば、その一二の慥(たしか)に記憶せし事、且我知れる事の後世に伝えたきをも 俗語につづりて村人の茶話となせり、ただ不侫(ふにょう)が筆力のなきを後人の加削をまちて文辞をなさば、余死後とも猶生きるが如くならむ、是持村事を知るに小助なくは有るべからずといふになむ 文化11年仲冬 草深里司 香取彰、明之書」 ●加藤清重郎 功績=水戸藩・御鷹狩のこと、山伏のこと。 請地も並みより多く、15人の請地のうち、3人半4分の1を一人で請けた。 総領は女子で、清左衛門を婿に迎えた。そのため清重郎は新堤北の台の本家を譲り、二男は清九郎を伴い、上の中嶋へ隠居した。両家ともに10町部の屋敷地に住居を建てた。 清左衛門の家に「丹」という娘が出生したものの、妻は流浪の山伏と密通し、生涯行方知れずとなる。清左衛門は草深を出て鍋子新田へ行ったため家は絶えた。そのため本家は中嶋の清九郎宅になった。 一方、清左衛門の娘の丹は、清田源兵衛2世の弟、源左衛門と結婚。だが、源左衛門は30歳でなくなってしまった。丹は発作新田の海野藤左衛門の妻となった。しかし、藤左衛門も死に、その後、佐倉領の亀崎五郎左衛門へ後妻に所望された。 そのころ叔父の清九郎は貧窮していたため、丹を大禄の亀崎家へと告がせたいと考え、親戚筋にあたる香取平左衛門家に仮親になってもらいたいと頼んできた。 「この丹は容顔はなはだ美麗にして当時まれの女の由、嬌奢(きょうしゃ=おごり、ぜいたく)を好み、才智男にも勝れたる者なりけるとぞ、亀崎の妻となりてのち、老年に及び“通し”籠に乗りて西国巡礼をしたりといふ」。 清重郎は、かつて孫の丹が幼かったころ聡明なのを見て、昔から「女子が才智過ぎるときは、その家は滅びる」といって嘆いていた。 清九郎は「我侭気随(わがままきずい=わがまま・きまま)の身にて、しかも才智なく、請け方仲間とも中相善(よ)からず、後にはだんだん疎(うと)まれ、その身も極貧窮とな」った。そして、終に剃髪して名を道入といったが、猶も我侭は直らなかった。 その後も困窮して家屋敷の年貢を6,7年も納めなかった。そのとき名主は金兵衛であったが、打ち捨てておいたものの、余りに重いゆえ、拠(よんどころ)なく年貢取立ての御代官手代へ訴へた。 代官手代が申すには、「いかに当新田起立(きりゅう)も百姓たりとも、御年貢を納めざる者は、この分に成らずとて居屋敷そのほか地面を取り上げ、名主へ渡しける」。 遂に道入は住むにも困り、香取平左衛門定賢の所持していた地面に庵を結んで住んでいた。年老いて道入に「おせん」という女子がいた。この娘は12,3歳のころ、道入自ら「おせん」を伴い定賢方へ来た。この子の祖母は由緒のある身。ぜひ養育してほしい。どこに嫁に出しても差し支えないと頼んだ。定賢は引き受け、加藤家を相続できるように育てよう。安心しなさいと受け取った。しかし、ほどなく道入は亡くなった。 加藤清重郎の家は断絶したが、「おせん」をなんとか相続させようと考えた。 折から中嶋の茂兵衛の母は清重郎と親戚筋にあたることから、子の長八と「おせん」を結婚させ、加藤家を継がせたいといってきた。 定賢は、もっともな話だが、道入に頼まれたことゆえ、立派に育てる責任があると一旦は断った。しかし、中嶋の婆は難しいことをいうので、しからばお宅の長男・長治郎(吉兵衛)の意見を聞きたいといった。 長治郎が訪ねてきたのでことの仔細を話すと、長治郎は「いかにも御尤もなことです。婆は事のわからぬ者ゆえ、わけなく人を恨むくせがあります。貴家には心配をおかけしましたが、婆の望みどうり、「おせん」を下されれば私どもにとって幸せなことです、という。 それほどの事ならばと、「おせん」を中嶋方へやることになった。長八には清重郎の名を付けようとおもったところ、長八が「おせん」を嫌って離縁をしてしまった。 この長八が後に妻をもらい、その子を清兵衛と名づけた。しかし、その家も2代にして絶えた。 一方、「おせん」は、長八に離別された後、名もない小百姓の喜左衛門に嫁いだ。 ほどなくして定賢は亡くなった。後を継いだ信賢宅を「おせん」は折々訪ねてきて愚痴った。(略) 平左衛門家は清重郎の古屋敷堤北の台を忠衛門と両家で所持していたが、困窮している「おせん」を不憫に思い、手前の持分を明和9年に「おせん」に呉れ遣わして、家を建てさせ、請け方仲間にも了解を得て喜左衛門を請け方に入れた。 「おせん」の娘「おきい」へ湯浅権兵衛の倅を婿に取り、これも喜左衛門と名乗った。しかし、この者、志正しからず盗みをしたところを人に見られ、面目なくて草深を逐電して、後に道心者になった。その子を仁三郎といった。文化元年に清左衛門の名を与えた。